1:振り返ってくれたら それはホンモノ 夕日が地平線に沈んだ後の教室はすでに薄暗く、いつもの騒がしさとは反対に異常なくらい静まりかえっている。綱吉は早足で窓際の自分の席に向かった。電気をつけることよりも何よりも、忘れ物を鞄にいれて早く立ち去らなければならないことが頭にあった。学校の規則では放課後、部活動以外での校内徘徊や居残りは禁止とされている。ふつうの学校であれば、生徒たちが守るはずがない規則だったが、並盛中は違う。並盛中には風紀委員がいる。彼らは規則や規律を重んじ、軽んじる生徒たちには制裁を与えることをいとわない。放課後残っていたばかりに、病院送りになった人間もいると噂が広がるほどだ。 明かりのない暗い教室で机のなかから数学の教科書をみつけて思わず顔をゆるめる。 「何をしてるの」 突然かけられた声に綱吉は持っていた鞄を手から取り落としてしまった。ファスナーがきちんとしまっていなかったのか、筆箱やノートの類が床に散乱する。忘れ物をとりに来たときは無人だった教室の前扉に黒い人影が立っていた。詰め襟の学生服を着た雲雀だ。片手にはトンファーを構え、うろんそうに綱吉を見ている。ただ忘れ物を取りに来ただけだというのに、いったいなぜ睨まれているのだろうかと考えつつ、綱吉は口には出せずに、言葉にならない声であうあうと言うばかりだった。 「耳、聞こえないの? 僕、質問してるんだけど」 トンファーを構え直しながら、雲雀が教室に踏み込んでくる。綱吉はあわてて床に散らばった鞄の中身をごちゃごちゃと鞄のなかに詰め込み、鞄を両腕で抱きしめて直立した。 「う、わ、忘れ物をとりに――」 「下校時間だって、放送、聞いてなかったの?」 薄笑いをうかべた雲雀がトンファーを握る手に力をこめる。綱吉は肩を縮めながら、わずかに足を引いて後退する。 「途中まで、行って、気がついて、いま、戻ってきたとこなんですっ」 「なに忘れたの?」 「宿題が出てる、数学の教科書を――」 「ふうん」 雲雀が一歩踏み出す。綱吉はよろめくようにして後ろに下がろうとし、背中が窓に当たってしまう。思わず口から小さな悲鳴が出そうになり、綱吉はあわてて口をとじる。雲雀はトンファーを構えていない左手を綱吉の顔の側のガラスに押し当て、綱吉にゆっくりと近づいてくる。綱吉は身をすくませ、雲雀の右手に握られた銀色の凶器に視線を落とす。怯えている綱吉を冷たく見下ろしながら、雲雀は低く押し殺したような声で囁く。 「なに、そんなに、おびえてるの?」 綱吉は間近にある雲雀の視線から逃れることもできず、無言で首を振るしかなかった。声は喉のあたりで回転するばかりで、唇も半開きのまま、動こうとはしなかった。ろくな答えが出来なかったため、振り下ろされるであろう打撃を覚悟し、ぎゅっと目をつむる。が、いくら待っても痛みは襲ってこない。 綱吉がおそるおそる目を開くと、雲雀はまっすぐに綱吉の顔を見ていた。眉墨でかいたようなきれいなアーチの眉、その下にアーモンド型の双眸、バランスのとれた鼻筋、まるで少女ともとれる血色の良い唇――その唇が綱吉の顔の十五センチほどの場所にある。雲雀はまごうことなき男性だったが、目元の険しさを取り除けば、歌舞伎の女形すら艶やかにこなすであろう色香があった。同年代の女子とも今の雲雀ほど顔を近づけたことはない。 恐れつつも、綱吉は頬が熱くなっていくのを感じた。 一人で跳ね上がる動悸に混乱している綱吉の様子を観察するように見つめていた雲雀は、急に興味をなくしたように綱吉から離れた。とたん、どっと襲う疲労感にその場にへたり込みそうになりつつ、綱吉は窓ガラスに背中を預けて息を吐いた。 「行くよ」 「え、え?」 「帰るんでしょう? 校門まで行くよ」 「え、そんな、いいで――」 綱吉の言葉を遮るには十分の威力がこめられた雲雀の瞳に、綱吉は反射的にうなずいてしまった。 「すいませんっ、お願いします!」 「ついてきなよ」 雲雀が学生服をひるがえして綱吉に背を向ける。 骸戦が終わり、入院していた雲雀が無事退院してきたのは数日前だ。校内を巡回している姿を何度か目撃しただけで、実際に会話をしたのは今が初めてである。一歩前を行く雲雀の背中を見つめながら、綱吉は歩を進めた。六道骸との戦闘で、雲雀は傷を負った。もとは綱吉を狙った犯行であったのだが、雲雀は一度でも不覚をとってしまった骸に対して、並々ならぬ憎しみと恨みを抱いているようだった。その骸を綱吉が倒したと聞かされたとき、彼は骨が何カ所も折れた身体でベッドから立ち上がり、綱吉に戦うように言葉を投げた。まるで幽鬼のような爛々と燃える怒りを綱吉は忘れない。きっと雲雀も骸に対して膝をついてしまったことを一生忘れることはないだろう。 ふいに、踏み出した足が床に触れず、綱吉は前のめりになり――、 「あ、え――」 両腕で雲雀の背中にしがみついてしまった。雲雀はよろめきかけたが、てすりを掴むことで綱吉もろとも階段の一番うえから転げ落ちることを回避した。手放してしまった綱吉の鞄が、ゆっくりと階段のうえを転がっていき、途中で止まった。 「なにしてるの?」 地底から響いてくるような暗く冷たい声に、綱吉は背筋が震える思いだった。しかし、立ち上がろうにも不安定な立ち方をしてしまっているため、雲雀の胸のあたりに腕を回し、つま先立ちのままで雲雀の背中に頬を押し当てる形で停止しているしかない。 「ご、ご、ごめん、なさ……っ」 言いながら綱吉はシャツごしに触れた雲雀の肌の違和感に気がつく。彼の胴には包帯が巻かれている。綱吉の脳裏に血塗れになって倒れた雲雀の映像が思い出される。ぎょっとして綱吉は雲雀の身体から離れようと腕から力をぬき、足を踏ん張ろうとしたが、やはり大きく傾いだ身体はバランスを保てず、よろめいたまま、階段を――。 「……っ……」 もがくように伸ばした綱吉の腕を掴んだ雲雀は、細い腕とは思えぬ強い力で綱吉を引き寄せ、身体ごと抱き留めて受け止めた。雲雀の華奢な首筋に顔をうずめ、両足がきちんと階段についていることに安心した綱吉は細長く息を吐き出した。 「注意力散漫」 頭上から降ってくる声に綱吉は反射的に顔をあげる。大和的に整った目鼻立ちには冷笑がうかんでいる。 「それとも、自分から階段を落ちようとするなんて、マゾ?」 「ひっ、雲雀さん、ほ、包帯が! 怪我――」 「あのさ、どもって話すのやめてくれない? イライラする」 「すいませんっ」 「立てるの?」 「はいっ」 雲雀が腕をゆるめる。綱吉は雲雀の側を離れ、転がっていった鞄を拾いに階段を降りる。 「階段もろくに降りられないなんて、きみ、これから社会にでてもなぶり殺しだね」 ゆっくりと階段を下りてくる雲雀を踊り場で待つ。彼は綱吉の近くまでくると、立ち止まることなく、次の階段を下りていく。綱吉は小走りに近づき、再び一歩という距離を保って雲雀のあとをついていった。そこから昇降口で靴を履き替えるまでの会話はない。綱吉はずっと雲雀の背中を見ていた。たしかに雲雀の胴体には包帯が巻かれていた。彼の性格上、医者の許可を得て退院してきたとは考えにくい。平常通りに生活していようと、もしかしたら雲雀は無理をしているのではないだろうか。「身体は大丈夫なんですか?」などと聞いたとしても、おそらくは無言か、よけいなお世話とトンファーがとんでくる確率の方が高い。雲雀が正直に気持ちを吐露するところなんて想像もつかない。ちらちらと骸戦で怪我を負った雲雀の姿が脳裏にちらつく。鬼気迫る、とは雲雀のことを言うのではないかと思うくらいだった。六道骸も恐ろしかったが、雲雀のことも恐ろしかった。憎悪であれ、何であれ、あれほど強く他人に感情を向けたことは綱吉には一度もない。血塗れのまま鬼気迫る形相で戦いに身を投じる雲雀をひどく恐ろしいと感じ、そして同時に――、美しいのかもしれないと思った。あれほどに感情をむき出しにし、生き死にの間際でたった一つの目的を達成するがために文字通り、必死となる。以前のように、謎の多い風紀委員としてでなく、雲雀恭弥として認識するようになってから、恐ろしさの種類が変わっていた。闇雲に恐ろしいというよりは、雲雀が見せる感情の強さに、綱吉はあてられて、引きずり込まれそうになってしまい、恐ろしいのだった。肉食獣のような獰猛な視線に睨まれ、可憐ともいえる唇から紡がれる低い声に言われれば、綱吉に選択権はないに等しい。 「何をぼうっとしてるの?」 一年の昇降口前で待っていた綱吉は、すぐ近くに音もなく立っていた雲雀に驚いて悲鳴をあげそうになるのをすんでの所でこらえた。雲雀は手ぶらだった。トンファーはどこかに置いてきたらしい。それでも彼が強いことは学校中の人間が知っている。 綱吉は清潔そうな雲雀のワイシャツを見つめる。包帯はしている。これは確信。彼はきっと何らかの理由があって無理をおして退院してきているに違いない。 「あの、雲雀さん」 「なに?」 「怪我っ」 ああ、とそっけない相づちのあと、雲雀は右手で胸元あたりに触れる。 「治ったよ」 「だって包帯が――」 「治った」 有無を言わせぬ語調で雲雀は繰り返す。フィギュアのように整った顔立ちにうっすらと苛立ちがのせられる。綱吉は鞄を掴む両手を強く握った。 「まだ完治していないうちに無理をしたらきれいに治らないことだってあるって母さんが言ってたんです。だから無理はしない方がいいんですよ」 雲雀の透き通っているような綺麗な瞳が綱吉を見ている。いつも通りの険しい表情のままだ。綱吉はひるまない。 「まさか通院はしてるんですよね? でなきゃ、本当にあとで大変なことになるかもしれないんですから。きちんと治療してください」 「きみに」 雲雀が校門に向かって歩き出す。 「関係ない」 後れをとった綱吉は小走りに近づき、雲雀の隣に並んだ。 「病院が嫌いなんですか? どうしてそんなに――」 前を見ていた雲雀の視線だけが綱吉に向けられる。彼は綱吉の瞳のなかに理由があるとでも言わんばかりにじぃっと凝視したあと、また前を向いた。綱吉の問いの答えはない。 校庭を横切って校門までは数分。すぐに到着する。雲雀は校門に背中を預け、綱吉は彼と向き直った。 「雲雀さん、身体は本当に――」 「どうしてそんなに言うの? 関係ないじゃないか」 「……だって」 綱吉は口ごもる。雲雀が怪我をしたのは綱吉が原因だと言っても間違いではない。綱吉が並盛中の生徒でなければ、雲雀は怪我をすることもなかった。 おそらくは綱吉の表情で綱吉が何を考えているか察した雲雀は眉をひそめて息をつく。 「僕は僕のしたいようにしただけ。自己犠牲精神を発揮するのは勝手だけど押しつけないで」 「でも」 「その話はこれでおしまい。次に口にしたら咬み殺すよ」 綱吉は口をつぐんだ。 雲雀は、不満そうに呻く綱吉をじっと見つめる。今日は雲雀によく見られている、と思い当たり、綱吉はその日初めて、怯えることなく、雲雀の視線を受け止め、投げ返した。 彼は無表情というよりは、険しい顔をしていた。眉と口元のあたりの緊張がほぐれたかのように、彼は、雲雀は――。 「きみは不思議な奴だね」 ぱちんとシャボン玉がはじけるように笑った。 「怯えていたかと思えば、強気に僕をにらみ返してくる」 「にらんで、なんか」 「どちらのきみも本当のようだし。いったい、その身体のなかはどうなっているの?」 校門から背を離して、雲雀が近づいてくる。綱吉はその場につなぎ止められたかのように動けない。まるで祝福を待つ殉教者のように立ちつくすしかない。雲雀の右手が持ち上げられ、綱吉の髪に触れ、指先が頬をたどる。くすぐったさに首をすくめれば、雲雀は両目を細めてほくそ笑む。 「きみに興味がわいたよ。沢田綱吉」 ぐ、と綱吉の唇のなかに、雲雀の白くなめらかな親指が押し込められる。思わず雲雀の腕を掴んで頭を後ろへ引いて口元から外そうとするが、それを雲雀は許さなかった。親指を噛むのを回避するために綱吉が口をひらくと、すぐに雲雀の顔が近づいてくる。戸惑いは一瞬、親指を引き抜いた雲雀の口が綱吉の口を覆う。雲雀の舌が口内を柔らかく蹂躙するのを感じながら、綱吉は必死で鼻で息をすることしか考えていなかった。ドラマや映画や漫画で飽きるほど見てきたが、実際に経験したのは初めてだ。読んだ知識でしかないキスを今自分がしているのだと思うころには雲雀は満足したのか唇を離し、吐息がかかるほど近い場所から綱吉の顔を見ていた。 「どうせ初めてでしょ?」 「え、う、……うー……」 雲雀は獲物を見つけた獣のように赤い舌で唇をなめる。どちらの唾液かわからないものがグロスのように光る雲雀の唇を凝視したまま、綱吉は混乱する頭で事態を認識しようと必死に考えようとしたが、情欲に邪魔をされてしまい、何を言ったらいいかも分からなかった。 「きみのすべてで僕を楽しませてよ」 雲雀は硬直していた綱吉の唇を舌を出してぺろりと嘗めあげて獰猛に笑う。捕らえられてしまった。そんな感情が綱吉の脳裏にレッドアラートを鳴らした。が、手遅れだった。 「ひばりさ、ん、オレ、男、なんで、す、けど!」 「だから?」 「キスなんて、しちゃだめだと」 「誰が言ったの?」 「えっと、あー、……お友達とかじゃだめですか?」 「そんなのあの群れてる二人と一緒でしょ? 気に入らない」 くく、と喉にこもるように笑い、雲雀は動けない綱吉の耳もと近くに唇を寄せる。 「僕だけを特別にしないならどうなるか分かってるよね?」 ぞわりと体中に広がった感覚を、綱吉はなんと名付けていいか分からなかった。 ゆっくりと綱吉の視界に雲雀の顔が見えるようになってくる。彼は笑っていなかった。強大で強力な確かな権力を持った視線が綱吉を見つめる。従わなければ何をしてでも従わせるよ。と黒い瞳が語っている。 綱吉は何も言えなかった。 ぎこちなく、それでいてしっかりと、頷いてしまった。 雲雀は身軽に綱吉から退く。 「さあ、下校して。僕はまだ仕事がある」 「あ、はい……」 まだ熱く震えている唇を動かして綱吉は答えた。 「さようなら」 「さようなら」 雲雀に頭を下げて背を向ける。歩きながら、右手で唇に触れる。まだ唾液で湿っていた唇は、まだ震えている。からみあった舌も自分のものではないような気がして、綱吉は唾液を飲み込んだ。雲雀にキスをされた。特別にしろ、と言われた。友達以上、親友、というわけではない。親友だとしたらキスはしない。恋人。それは同性同士でも使用できる単語だったろうか。よぎるのは唇の感触、うねる舌の動き、階段で抱きしめられた感触、そして理由はなんであれ、綱吉のために血塗れになった鬼気迫る雲雀の顔。 綱吉は振り返った。 雲雀はすでに校舎に向かって歩き出している。華奢な――綱吉よりはか細くない――肩にかけられている黒い学生服の裾が風にゆらめいている。 綱吉はその背中が遠ざかっていくのを見つめていた。雲雀は気まぐれだ。ただの思いつきやその場の流れで綱吉にキスをし、関係を迫っただけかもしれない。本人には弄んでいる意識があるのに綱吉を振り回しているのだとしたら遊びよりもたちが悪い。 振り返れ。 綱吉は思った。 振り返れ。 振り返れ。 振り返れ、と。 もしも綱吉のことを少しでも――色恋などというセンチメンタルな感情で――想っていてくれるのであれば、立ち去っていく綱吉の姿を見たいと願い、振り返るだろう。それはいささか少女漫画の読み過ぎともとれる願望だったかもしれないが、恋をすると少年だって少女だって結局は同じだと綱吉は思う。 雲雀の姿を見るために振り返った今の綱吉も例外ではないだろう。 振り返ってしまった時点で、綱吉は自分がすでに雲雀に振り回されているのを全身で感じていた。たかがキスを一度したくらいで、おかしくなってしまったのだろうか。それほどに欲求が溜まっていたのか。ぐるぐると回り続ける思考に綱吉がゆるゆるとため息をついた刹那――。 雲雀が立ち止まった。 綱吉は息をひそめる。 なにげない仕草で雲雀が後ろを振り向いたところで、立ち止まっていた綱吉に驚いたように雲雀は停止する。おそらく、らしくないことをした事を綱吉に目撃され、対処の仕方が分からないのかもしれない。綱吉はようやく肩のちからがぬける思いだった。自然と笑いがこぼれる。 振り返ってくれた。 キスに見合う成果だ。 雲雀がかつて今まで戦い以外で誰かに執着するのを綱吉は知らない。そんな彼の執着が自分に向いていること。それは確固たる優越が感じられた。綱吉にとってキス以上の行為が同性同士でもできるなんてことは知らない。キスだけと考えれば特に不快感はない。雲雀は黙っていれば多少、表情の険しさがあるが、綺麗な顔立ちだ。キスをして気持ち悪いとも感じなかった。誰にも懐かない雲雀が綱吉に手を伸ばしてきたことのほうが嬉しい。 むっつりと怒った様子の雲雀が綱吉の方に歩いてくる。あわてて笑みを引っ込ませた綱吉は、立ち止まっていたことへの理由を必死にいくつも考えるために思考をフル回転させ始めた。 ―END― |