『Echo Again―晴―』


 呼び出し音が五回鳴る前に相手が電話に出た。

「沢田か?」

 くすくすと笑う声が受話器ごしに了平の耳元をくすぐる。

『オレの携帯電話にかけてるのに、他の誰が出るっていうんですか? 了平さん』

「それもそうか。まだ起きていたんだな」

『ええ。まだちょっと片づけなきゃいけない仕事があって。了平さんはいま、ヴェネツィア でしたっけ? そこ、外ですよね? なんだか、声の響きがそんな感じですよ』

「ああ、外にいるんだ」

『どうかしたんですか? 了平さんから電話をかけてくるなんて。いつも、電話なんてまどろっこしい!なんて言って使わないのに』

 ゆるやかなカーブの路肩にシルバーのマセラティスパイダーを停め、そのボンネットに腰をかけて了平は、眼下に広がる夜の海原を眺めていた。暗い海にぼんやりと小さな月明かりが反射している。

 綱吉がいるボンゴレの館より数百キロ離れた場所に了平はいた。

 何の目的もなく車を走らせていると、ふと空に浮かぶ月が目に入った。

 綱吉も同じ月を見ているだろうか。

 がらにもないロマンティックな思想に了平は一人で声を立てて笑った。
 どうしても綱吉の声が聞きたくなってしまって車を路肩に停めた。寝ているかもしれないという予感はあったが、一度思い立ってしまったことをやめることはできなかった。

「おまえがどうしているかと思ってな」

 受話器の向こうで綱吉が笑った気配がした。

『ちゃあんとお仕事してますよ! そんなにオレ、さぼりそうですか?』

「いや、仕事の心配はしていない。沢田が元気でいるのかと思ってな」

『あはは、オレは元気ですよ。了平さんは? 土地の視察は順調でしたか?』

「ああ、海沿いのいい土地をわりと安価で手に入れられそうだ。地主の親類がうちのファミリィにいるらしくてな、実にきさくな親父なんだ。ボンゴレは他のマフィアとは違うと言って、沢田のことをえらく褒めていたぞ」

『うわぁ、褒めたって何にも出ませんよ』

「俺は誇らしかったぞ。おまえが褒められると俺まで心底嬉しくなる」

『ふふふ、ありがとうございます。他のマフィアと違うって言っても、結局はやっていることは同じなんですけどね。不思議なもんです……』

「使う道具が同じでも、使う人間が違うのなら、おのずともたらされる結果も変わってくるものだ」

『道具って……』

「ボンゴレも他と比べると随分と荒くれ者ぞろいだが、指導者たるおまえが凛とした態度で我々を使ってくれるから、良い結果が生まれるんだろう。でなくては、きっと、道を踏み外してしまう奴らだって出てきたに違いないさ」

『………………』

「どうした? 沢田」

『オレは、ですね、了平さん』

 妙に強ばったような声音で綱吉が言う。
 了平は携帯電話を耳に押し当てたまま、無意識に姿勢を正して身構える。

「ああ」

『みんなのことを、あなたのことを、道具だなんて、一度だって考えた事も思った事もありませんからね。お願いですから、『道具』だなんて口にしないでください。嫌です。オレにとっては、みんな、みんな、大事な家族なんですから』

「す、すまん。以後、気をつける」

『そうです。ちゃんと気をつけてくださいねっ』

「わかった、わかったから――、悪かった、失言だった、申し訳ありません」

 まるで子供に言い聞かせるかのように綱吉が言うので、了平は思わず敬語になってしまった。はたっと口からでた言葉を認識した了平は、己の口から出た言葉に驚いて息を吸ってかたまってしまった。


「……………」
『……………』

 数秒の沈黙のあと、同時に吹き出して笑い出す。

『あはは、了平さんに敬語つかわれちゃった』

「最近は叱られることもなかったからな。つい、反射的に謝ってしまったんだ」

『なんだか新鮮ですよ。了平さんに敬語つかわれるなんて』

「敬語か。考えてみれば、沢田は俺のボスなのだし、敬語で話すべきなのかもしれんなあ」

『えぇええ! 嫌ですッ。絶対に嫌です! 了平さんにそんなことされたら、オレ、すっごい悲しいですから、絶対にしないでくださいね! ね!?』

 勢いよくまくしたてた綱吉の語尾が甲高く震える様子に、了平は思わず破顔してしまう。
 可愛い、とても可愛いらしい人だ。
 了平は己の身体の内側から溢れてくるあたたかで優しい感情を味わうように、目を伏せる。


「沢田」

『うぇ? あ、はい――?』

 声を聞いた瞬間から何度も口にしようとしていた言葉は声にならず、情けないような吐息だけが口から漏れる。

 思わず苦笑して了平は空を仰いだ。
 月が綺麗だった。
 繰り返す波音を聞きながら空を見上げる。
 どこにでも、いつであろうと、空は、――大空は了平の側にある。


「……なんでもない」


 携帯電話のスピーカーをくすぐるように綱吉が笑った。
 目を閉じると綱吉の顔が思い浮かんだ。


『なんでもないだなんて、了平さんらしくありませんよ。――大好きです、無事に帰ってきてくださいね、オレ、待ってますから』

 年下の恋人の微笑み混じりの言葉がじんわりと了平の体内に広がっていく。

 愛に戸惑う了平をいつだって綱吉は引っ張り上げて捕らえてしまう。
 自然と笑みを浮かべながら、了平は答える。

「――きっと無事に帰る。おまえのために美味い菓子を買って行くから待っていろ」

『やったあ! 嬉しい! ありがとうございます』

「今夜は仕事はほどほどにして寝るんだぞ」

『はい。了平さんもホテルに戻ったらきちんと休んでくださいね』

「ああ、そうする。……沢田、愛している。おやすみ』

 口早に愛を囁くと、綱吉は嬉しそうに吐息で笑った。

『オレも愛してます。おやすみなさい。明日の夜、会いましょうね」

「ああ。じゃあ――」

 通話を終了した携帯電話を片手に、了平は海原に浮かぶ月明かりを眺める。

 同じ月明かりの下にいる彼を想う。

 早く帰りたい。

 いますぐ車に飛び乗ってエンジンをかけてハンドルを握ってアクセルを踏み込んで。
 一晩中走り続けて、彼の元へ――。

 想像して笑う。
 彼の命令で任務中なのだからそんなことは出来ない。

 携帯電話をスーツのポケットにしまう。

 永遠に続くさざ波の音を聞きながら了平はそっと呟いた。

「いい月夜だ――」

 
《大人になって臆病になった彼と大人になって不敵さを学んだ彼との甘いやりとり》