《Echo Again ―霧―》 ああ。 誰かが泣いている。 ひとりぼっちで泣いている。 幾百の、幾千の、幾億の――。 夢の合間を漂うようにしていた六道骸は、泣き声のする方向へと意識を集中する。霧散していた六道骸というものを作り上げている粒子が集まり、個体として存在を確定していく。髪、顔、腕、指先、胴、腰、足、足先、――六道骸の身体。 「あ、あ、あ、」 声を出して、形作られた指を開いたり閉じたりして、まばたきをする。 そうしているうちに、骸の周囲に霧が流れ込み始め、みるみるうちに視界を白く染めていく。ふわりと身体が浮いて落ちる感覚のあと、風も吹いていないのに――感覚の世界なのだから当たり前だが――霧がみるみるうちに薄れて視界が広がっていく。 現れたのは学校の教室だった。どこにでもあるような勉強机と椅子が平行に並び、緑色の黒板が教室の前と後ろにあり、天井には規則正しく蛍光灯が配置されている。 教室の真ん中なの椅子に座っているのは十代の学生ではない。顔を両手で覆って背中を丸めているのは、ダークブラウンのスーツを着た男だった。色素の薄い茶色の髪が嗚咽と共に細かく震えている。 骸はゆっくりと机に座っている彼に近づいた。 目の前に立っても彼は顔をあげない。すすり泣くような声が教室に響いている。骸はなにげなく窓の外へと視線を投げる。今まさに太陽が沈んでいくのだろう。鮮やかな夕日が教室の半分ほどにまで差し込んでいて、わずかに見える空も茜色をしていて、どうしたってノスタルジックな雰囲気が胸に浮かんでくる。校庭には運動部が部活動をしていてどこからかかけ声のような声が幾重にも聞こえてくる。 骸は顔を伏せている彼に視線を戻した。 「綱吉くん」 驚くこともなく、ゆっくりと綱吉は顔から両手を外した。泣き疲れていたのか、表情はなく、頬には幾筋もの涙の後が走り、てのひらも湿って光っていた。 「……また、勝手に、人の夢に入ってきたんだな」 責めるというよりは、すねるように言って、綱吉は肘をついた右の手のひらにあごをのせた。涙でぐちゃぐちゃの顔で笑む。ゆがんだ頬のうえを目の端に溜まっていた涙が落ちていった。 「プライバシィの侵害だぞ、訴えてやるからな」 「だって、あなたが泣いている気がしたんです。泣いているあなたを放ってなどおけません。直接肉体に触れることは叶わぬことでも、こうして夢の中でならばあなたに触れて、涙を拭うことが出来るんですから……」 綱吉が座る机に腰を預けて、骸は泣き濡れている彼の目元を指先で拭った。彼はくすぐったそうに首をすくめて笑った。 「骸はどこにいても、オレのことばっかりだね」 「そうですよ。僕はいつだって綱吉くんのことしか考えてないんですから。――どうかしたんですか? あなたが夢の中で泣くなんて、よっぽどのことがあったのでしょう?」 綱吉は何も言わない。 唇を結んで首を振る。 骸はいま、とあるファミリィとの同盟交渉についての話し合いを行うために、綱吉がいる本拠地からは遠く離れた場所にいる。定期的に連絡をとってはいるものの、綱吉の周りで何が起きているのかは、向こうで隠されてしまえば知ることは出来ない。嫌な予感がして骸は眉を寄せる。そんな骸の様子に綱吉は唇を噛んで視線を下へ向けて、ますますかたくなに黙る姿勢を見せる。 「キスしてもいいですか?」 「ダメ」 近づけていった骸のあごを綱吉の右手の指先が制する。ずっと泣いている顔を覆っていたせいなのか、彼の指先はひどく熱かった。骸は探るように綱吉の瞳を見つめる。 綱吉は、骸のあごに触れていた手をさらにのばして、左手ものばして、骸の首に腕を絡めるようにした。座っている彼に引き寄せられる形になった骸は、少々姿勢の窮屈さを感じながらも、すがりつくように伸ばされた彼の意思を大切にしようと思って我慢をした。 「……むくろ……」 「はい」 「帰ってくるの、いつだっけ?」 「あなたが望むのなら今すぐにでも」 「あ、うん。ごめん。言い方が悪かった。仕事を終えて帰ってくるのはいつ?」 「――あと三日くらいですかね。先方との交渉にはそれぐらいかかりそうです」 「そっか」 骸は片腕を伸ばして綱吉の頭を抱えるようにした。指先で彼の髪をふわふわと撫でながら囁く。 「間違えました。あと二日――いえ、一日半で終わらせますから。そしてすぐに帰りますよ」 「無理、しないでいいよ。オレは大丈夫、……大丈夫だからさ」 小さな笑い声をたてて、綱吉は肩を震わせて腕をゆるめる。骸はそっと少しだけ身体を離して、綱吉の顔を見た。彼は骸と視線があうと、赤くなった双眸を細めて微笑む。大丈夫と繰り返す人間がする表情ではなかった。 「大丈夫な人は泣いたりしませんよ。どうせ、僕があなたのもとに帰れば、あなたが今、隠していることなど知ることになるんですから。黙っていても意味のないことですよ?」 囁いた骸の声に眉を寄せ、綱吉はすぐに骸の肩に顔を伏せたが、しばらくすると吐息をひとつついたあとで、そっと顔を上げた。潤んだ琥珀色の瞳を見つめ返すと、綱吉は少しだけためらうように唇を噛んだあと、 「り、……リボーンが、怪我して、ね……」 本当に小さな声で言った。こらえきれなくなったのか、綱吉は目をつむって下を向いた。骸はうつむいた綱吉の頭に頭を寄せて、ゆっくりと彼の髪を撫でながら囁く。 「悪い状態なんですか?」 「ううん。命に別状はないし、怪我も後遺症が残るような恐れはない程度なんだけど」 「だったらよかったじゃありませんか」 そうなんだけれど――と囁いて、綱吉はか細く息を吐き出した。 「リボーンってさ、オレから見たらいつも無敵だったからさ、なんか、さ……。あいつが血を、「ああ、こんなに欠点のない奴も死ぬんだ」とか思ってさ――、ちょっと怖くなっちゃったり、して、ね……」 「馬鹿ですか、あなた」 「うっ、ちょっとそれは予想外の答えだったなあ」 苦い顔をした綱吉の顔を間近に眺めながら、骸はわずかに顔をしかめる。 「あなたを守る六人の守護者がいるかぎり、あなたは何の恐ろしさも感じずにいられるんですよ。我々を軽んじてやしませんか? あなたが恐ろしくなるような事態になるまで、我々が放っておくとでも?」 綱吉の手が骸の胸元を押した。それはかるい拒絶のような仕草だったので、骸は驚いて息を呑む。彼は、苦痛をこらえているかのように顔をゆがませ、ゆるゆると首を振りながら口を開く。 「おれが、連れてきたんだ」 夕暮れが差し込んでいる教室に。 静かな声が悲鳴をあげているように響く。 「みんなを、ここへ、連れてきたんだ――」 気がつけば、骸は綱吉の頬を右手で打っていた。叩いた手のひらがじんと熱をもって痛む。 頬を叩かれた綱吉は驚いたように目を見開き、打たれた頬に手を添えて、骸を見上げてくる。 「僕は自分の意志でここへ来ました。あなたに連れてこられた訳じゃない」 「………………」 「いつまでそうやって、悔いているつもりですか? あなたが後生大事に抱えているその悔いこそ、僕や他の守護者達を侮辱しているのだと、まだ気が付きませんか? あの殺し屋が言ったんですか? おまえに連れてこられたせいで自分は血を流すはめになったとでも? それともあなたのお友達たちが、おまえのせいで自分たちは道を踏み外したとでも言ったんですか?」 「骸、でも、オレは――」 「その他の人間がどう思っているかは分かりませんが、少なくとも僕は侮辱されていると感じます。僕は僕の意思をあなたに決めてもらいたくはない」 固い声音で骸が告げると、綱吉は悲しそうに眉尻を下げて、背中を丸めるようにして俯いた。細く華奢な首筋が後ろ髪のあいまからのぞく。 「……ごめん。そんなに怒るとは思わなかったんだ。オレは、……オレはさ、結局、元がダメだからさ、どうしてもそういう考えがね、出て来ちゃうからさ……。不快にさせて、ごめん……、オレ、馬鹿だから、言われるまで、気がつけないん、だよ、ね……、ごめん……」 うっ、という声がもれて、さきほど止まったはずの彼の泣き声がまた始まる。失敗したと思ったころにはもうすでに遅く、綱吉は嗚咽をこらえながら泣き始めてしまった。 骸は静かに息を吐いて、腰を預けていた机から離れて立ち上がる。腕を組んで、震える綱吉の肩から視線を外して、教室の窓の向こうを眺める。夢の中の時間は停止しているのか、少しも変わらない夕焼けの景色が広がっている。 泣かせたい訳ではない。ただ、綱吉がなにもかもをすべて自分一人が悪いのだと、十年近く経ったいまもそう思っていることに腹が立っただけだ。骸のことも無理矢理にボンゴレへ引きこんだのだと、そう自覚しているに違いない。今までも度々彼は言うことがあった。「おまえはマフィアが嫌いなのにな」や「オレのせいでおまえは普通の生活を一生送れない人生になっちゃったね」などと言っては骸を不機嫌にさせていることを、彼はまだ分かっていないようだった。 骸が違うのだと言っても、変なところで頑固で強情な彼は認めやしないだろう。 ならば、骸は何度でも口にしようと思っていた。 骸は骸自身の意思に従ってこの場に立っているのだと。 長い長い輪廻の道のうえで初めて出会えた愛する人間の隣にいるのだと。 「綱吉くん。顔、あげてください」 綱吉は両手で顔を覆ったまま動かない。 「もう怒ったりしませんし、殴ったりしませんから。顔をあげてください」 ぐすぐすと鼻をすすっているのか、嗚咽をこらえているのか分からない泣き声をこらえながら、綱吉は伏せていた顔をあげた。両手で目元をぬぐったあと、水面から顔を出したかのように息を大きく吸って、ひくつく嗚咽を飲み込む。 ますます赤くなった目元が戸惑ったように骸を見てわずかに細められた。 「キス、してもいいですか?」 「え」 「してもいいですよね。しますよ」 身を引こうとした綱吉の背が椅子の背もたれに当たってびくりと震える。骸は綱吉の肩と後頭部に手を添えて、逃れようとする彼を押さえ付けて、唇を唇で覆った。最初の三回はついばむようにかるく、四回目からは互いの口を深く重ねあわせ、求め合うように舌をもつれさせる。夢のなかとは到底思えないほどの生々しい舌のうねりと、呼吸がうまく出来ないために苦しそうに目を閉じて眉を寄せる綱吉の表情が、じわじわと骸の加虐心をふくれあがらせていく。彷徨うように持ち上がった綱吉の手が骸の腕に触れたところで、骸は己の加虐心をおさえこんだ。骸が抱えている残忍さは綱吉にとっては毒に近い。骸はまだ綱吉を壊したくはなかった。 惜しむように浅いキスを何度か繰り返したあとに顔を離すと、唾液に濡れた唇を噛んで、綱吉は呆れたように骸を見上げた。 「――な、……ん、なんだよ……」 「これで僕の怒りは収まりました。もう綱吉くんが謝る必要はありません。ぐだぐだ言うのは好きじゃないんですよ、これでこの話は終わりです。だから綱吉くんももう泣かないでください。鬱陶しいので」 「鬱陶しいって、おまえ……。オレは本当に悪かったって思って謝ったのに、なんなのこの仕打ち……、意味、わかんないっ……」 湿っている唇を手の甲でぬぐって綱吉はうめく。 「骸はオレのこと、ほんとは嫌いなんだろ。絶対そうだ。おまえ、オレのこと嫌いだろ?」 「ハア? なにを馬鹿なことを言ってるですか? 僕ほどあなたを愛してる者などいやしませんよ? あなたのほうこそ自覚が足りないんです。僕にこんなにもこんなにも愛されていることをちっとも分かってないんですから」 「……オレはおまえのこと、ちっとも分からない」 「分からない? ――本当に僕に愛されていることが分からないんですか?」 骸がじっと綱吉を見つめると、彼は困ったように視線を彷徨わせながら、たどたどしく首を振った。 「それは、分かるよ。分かってる。すごく、分かる。――けど、ときどき、おまえはオレのことが本当に嫌いな時があるのも、本当だろう? オレはね、骸――、分かるようになってきたよ、六道骸って存在のことがさ……」 骸は微笑んだままで、椅子に座ったままの綱吉を見下ろした。 彼は泣きはらした瞳を骸に向けて、真剣な顔で言う。 「おまえはほんとうは、オレのことをどう思っているの?」 綱吉の言葉を聞いた骸は、微笑みを崩さずに彼の両眼を見つめていた。 琥珀色の瞳は潤んだままで、艶っぽく骸を見上げている。 どんなに可憐で美しい少女が存在していても、泣き濡れた綱吉の瞳の魅力には敵わないだろう。 微笑んだまま、彼の額に右手の指先で触れる。やわらかい髪を指先でかきわけ、出現した額に人差し指と中指の腹で触れた。 「骸――?」 不思議そうに呟く彼の額に触れたまま彼の顔に顔を近づけて骸はそっと囁く。 「あなたのことが嫌い? そうですね、そんな時もあるかもしれないですね。四六時中、盲目的に他人を愛せるほど、僕だって感情をころしてないわけですしね。でも、嫌っている時間よりも、何倍も、何十倍も僕はあなたのことを愛してるんです。好きで好きでたまらない時間の方がずっと多い。だから僕はあなたの側にいたいと思うし、あなたに好かれたくってたまらない気持ちをいつだって抱えてるんです。僕にとってはね、綱吉くん――、あなたに嫌われたり、見捨てられることが、どんなことよりも恐ろしいんですよ。何故か分かりますか?」 綱吉はすぐ近くにある骸の両眼を見つめながら、わずかに首を振った。骸は口元をゆるませて笑みの形をつくって、綱吉の顔にさらに顔を近づける。 「分からないのなら教えてあげましょう」 指先が触れていた綱吉の額に唇を寄せ、祝福するようにそっとキスを落とす。 「あなたは僕の『愛』そのものなんです。だからあなたを失ったら、僕はきっと破滅するしかない……分かりますか? ねえ、綱吉くん」 吐息で骸が笑うと、綱吉は右手を伸ばして骸の頬に触れる。指先が骸の目元にのび、頬のラインをたどるようにおりる。 「――わからない……、オレには、おまえが、わかんないよ、骸……」 戸惑ったように綱吉が囁く。 骸の愛に応えながらも、綱吉はいつも迷っているような仕草を見せる。わからない。わからない。と繰り返しながらも綱吉が骸のことを突き放したりしないのは、ひとえに彼の受け身の性格がゆえだ。強引な人間に対しては限りなく自己というものが弱くなっていく。 骸が愛を囁いて、キスをして、ベッドの中で睦言を繰り返せば繰り返すほど、綱吉はどんどん深みにはまってぬけだせなくなっていくだろう。それこそ骸の望むがままだ。 骸の唇から思わず忍び笑いがもれる。ますます戸惑ったように綱吉は困ったように目を伏せる。 「愛してます。綱吉くん。――綱吉くんは? 綱吉くんは僕を愛してくれてますか? それとも訳の分からない僕なんて嫌いですか?」 出来る限り美しい微笑をうかべた骸の顔を間近にしていた綱吉は、泣きはらした頬を恥ずかしそうに赤く染め、照れたようにうつむいた。 「……す、……好きです、よ……」 綱吉の言葉を聞いて――。 骸がひどく愉悦に歪んだ微笑を浮かべたのを、綱吉は知らない。 《信仰狂気愛情悲哀憎悪執着慈愛妄信恋情 この想いに名前をつけるとしたら何になる?》 |
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