《Echo Again ―獅子―》










 すぐ近くで連続した電子音が響いている。それが携帯電話の呼び出し音だということに寝ぼけながら気がついたディーノは、目を閉じたままで白いシーツの枕元を右手で探った。ベッドに入る前に時計を確認したときはすでに午前二時だった。寝についてそれほど時間が経ってないとして、深夜にディーノに電話をかけてくる人間などごく少数に限られているし、おそらくは重要度の高い連絡に違いない。起こされたことへの苛立ちが半分あるものの、何千もの部下がいる統率者としての責任感から、ディーノは眠りたい衝動を振り払って、肌触りの良いシーツのうえをまさぐって携帯電話を探し出し、寝ぼけたままで耳に押し当てる。


「んー、もし、もーし……」


『……………………』


 相手は何も言い出さない。不審に思ったディーノは携帯電話を耳から離して画面を見る。そこには沢田綱吉の名前が記されている。一瞬でディーノの意識は覚醒する。


「ツナ。どうした? 何かあったのか?」


 うっ、という呻き声だけがして、電話の向こう側が静かになる。


「ツナ。――ツナ、ツナ……、どうした? 何かあったのか?」


 ディーノは携帯電話を耳に押し当てたまま、ベッドから飛び出した。片手で寝間着のシャツのボタンを外しながらクローゼットを目指す。ぞわぞわとした緊張感がディーノの背筋を駆け上っていき、意識がどんどんはっきりとしてくる。


 脱いだシャツを捨てるように床の上に放った瞬間――、



『……ディーノ、さん……』


 震える声を押し出すように綱吉が囁く。
 ディーノは着替えをやめて、耳に押し当てた携帯電話から聞こえる声に集中する。
 

「ツナ――、何か言ってくれ、いったい、どうしたんだ?」



『――オレ、もう駄目かもしれません……』


 ひどく落ち込んだ声で綱吉は言う。


『ゆ、ゆっ、指輪、なくしちゃった、みたい、で――』


「……ゆびわ……?」


『――ボンゴレリングですぅ……』


 情けない声をあげて、綱吉はスピーカーの向こう側で「あうう」と意味をなさない声をあげた。


『どうしましょう。オレ、殺されますよ、リボーンに。ま、まだばれてはいないんですが、ど、どうしたらいいですかね? 偽物作っても絶対ばれるだろうし、ああ、うああ、どうしましょう?』


 ディーノは、携帯電話ごしに伝わらないようにそうっと息を吐き出して、よろめくようにしてクローゼットに寄りかかった。座り込みたいような気分になりつつも、ディーノはゆっくりと足を踏み出し、ウォーキンクローゼットから出た。綱吉は相変わらず「どうしましょう」と「あうう」とを繰り返すばかりで、そうとうに焦っている様子だった。

 ディーノが眠っていたベッドの脇にある、サイドボードのうえにデザインリングがひとつ置かれている。それは電話の相手である綱吉が必死に探している――ボンゴレリングだ。

 ディーノは眠っていたベッドまで戻って腰を下ろしたところで、混乱してしまっているツナの名前を何度か呼んだ。しかし彼は自身の考えに没頭しているせいか、すぐに気がついてくれなかった。思わず苦笑したあとで、ディーノは甘ったるい響きを含ませて彼の名を呼んだ。


「ツナ、ツナ――、落ち着けって」

『わ、ディーノさん、なにかいいこと思いつきました!?』


「ツナ、それに気がついたのいつだ?」


『え、今日の夕方ですけど』


「三日前、うちにきて、泊まってったろ?」


 電話の向こう側で綱吉が息を呑む。
 しばらくの沈黙のあとで、脱力したような綱吉の溜息がスピーカー越しに伝わってきて、ディーノは苦笑をする。


「思い出したか?」


『あ、…なんか、こう、ディーノさんが言いたいことが分かったような気が――』



「あたり。おまえ、ベッドんとこに指輪置いてっちまったんだよ」


『うあ……、本当ですか? っていうか、なんですぐに知らせてくれなかったんですか!? ディーノさんの意地悪!』


「意地悪ってね、ツナ。――俺はいつ気がつくんかなぁって思ってたんだぞ」


『知ってたのに黙ってるだなんて意地悪じゃないですか!』


「別に意地悪してた訳じゃねえぞ? おまえがいつ指輪のことに気がついて、指輪を外した場所を思い出して、ついでに俺のことを思いだして、俺に会いに来てくれんのかって、待ってたんだぞ?」



『それって――』


 照れて戸惑ったような声音で言って、綱吉は黙り込む。
 なんとなく、受話器の先で赤くなっている綱吉を想像して、ディーノはにやついてしまった。



「恋人の忘れ物を大事に持ってりゃ、恋人はそれを取りに自分のとこにやってくるだろ?」



『うっ、……ディーノさん、少女漫画読み過ぎですよ』



「そうかあ? ま、ジャッポーネの漫画はどれも面白いからなぁ。ツナんとこにある漫画ん中でも気に入ったのは俺も買いそろえてるんだぜ? なにか面白いのあったら教えてくれよな?」



『いや、まあ……漫画はオレも好きですけど。――ディーノさんは存在が少女漫画みたいなんですから、行動まで少女漫画みたいにならないでいいんですよ。っていうか、少女漫画に出てくる王子様的キャラが、正統派少女漫画のヒロインみたいな行動するって、なんかこう、こう……ッ』


「ん? ツナ、言ってることがよく分からねぇんだけど?」


 分からないままでいいんです、と呻いた綱吉は、おおげさなくらいに息を吐き出した。


『よかったあ……、これでリボーンに殺されないですみますよ』


「そりゃあよかった。――っ、くっしゅん」


 くしゃみをして、上半身裸だった事を思い出し、ディーノは片手でベッドのうえで丸まっていた薄い掛け布団を手にとってくるまった。まだ寒い季節でないにしろ、やはり上半身裸では肌寒さがある。


『ディーノさん、風邪ですか?』


 心配そうな綱吉の声が心地よくて、ディーノは表情をゆるませながら言う。


「あ、いまちょっと、上半身裸だからな、寒かったんかも」

『はだか?』

「おまえの様子が尋常じゃなかったからな。着替えて車とばしていこうかと思ったんだが、……指輪のことだったんなら、まあ、……行く必要はねえかなって思って、着替えんのやめたんだ」

『わっ、すみません! 服、服着てくださいっ、風邪ひいちゃいますよ! ほんとすいません、ごめんなさい!』

「いいっていいって、気にすんな。今回のことがあったからって、遠慮して電話しねえとか、そういう事されたほうが俺は悲しい。何かあったらすぐに俺んとこに電話しておいで、ツナ」


『ディーノさん……』


 綱吉の声がディーノの名を呼ぶ。
 変声期が訪れてもあまり変わることのなかった、男性にしては高い声が鼓膜をくすぐる。ディーノは閉じたまぶたの裏に綱吉の笑顔を思い浮かべながら言葉をつむぐ。


「指輪、明日、とりにくるんだろ?」


『明日、……明日ですか……。そうですね、どうにか時間作って行きます』



「出来るなら三時間くらい、作ってもらえるといいんだけどな。そうすりゃ、ゆっくりできっだろ?」



『――で、出来る限り、頑張ります……』


 クスクスと笑いながら綱吉が答える。

 ディーノはベッドサイドに置かれたままだった、大空のボンゴレリングに指先で触れる。指輪は冷たく固かった。血筋にしか祝福をもたらさない大空のリング、沢田綱吉の未来を決定的なものにし、彼を闇の社会に繋ぐ楔――。



「ツナ」


『はい』



「ツナにとって、この指輪は――、大事なもんなのか?」


 恐るべき、忌むべきものだとは、綱吉は思わないのだろうか。
 延々と脈々と血筋によって受け継がれてきた呪われた指輪。
 たった七つの指輪によって、十代だった彼等の未来が決定されてしまったことを、ディーノは十年近く経った今も、どこかで残念に思っていた。


『……大事か、どうか、ですか?』


 戸惑うような声がもれたのは一瞬で、すぐに綱吉は答えた。



『そりゃあ、大事ですよ。指輪の争奪戦があって、その時、オレは覚悟を決めたようなもんなんですから。なにより、なくしたなんて言ったら、リボーンにボコボコにされますって。殺されないかもしれないけど、半殺しになるのも痛いんで嫌ですよ。……ただ、オレが大切にしたいものは、もっと別のものなんですよ。指輪はただの、――なんていうか、物質的な形にすぎなくって、守りたいのは……、うん、ディーノさんが守りたいって思うものと同じだと思いますよ』


 ふふ、と綱吉は短く笑う。


『オレはずうっと前から、ディーノさんみたいなボスになりたいなあって、常々思って仕事してるんですよ? 格好良くて、頼りがいがあって、部下のみんなに慕われるような!』


「おいおい、褒めたって何にもでねぇぞ」


『ディーノさん』


「うん?」


『オレはマフィアになったこと後悔してないって、そんな大それた事、言ったりできないですけど、でも、マフィアになって、あなたと同じ世界に立てたことは、純粋に嬉しいって思ってるんですよ』


「嬉しい……? ほんとにそうなのか? おまえ、よく泣いてるだろう?」


『う、それを言われると困るんですが――。それに最近は、ディーノさんの前でしか、泣いてませんよ。昔みたいに、しょっちゅう泣いてる訳じゃありませんし』


 ディーノの前でしか泣かない。
 それがどんなに甘い囁きなのか、綱吉は分かっていないのだろう。
 ディーノは室内に自分以外誰もいないことをいいことに、にやにやとしながら綱吉の言葉を聞く。


『まぁ、ええ、……ディーノさんがいてくれれば、オレはどんな場所に立っていても、きっと前を向いていられるんじゃないかなあって、そんな感じなんです』


「熱烈な愛の告白だな」


『たまには、イタリアの男性に負けないようにって思いまして――』


 受話器ごしに綱吉が明るく笑う声を聞いていると、ディーノはいますぐに着替えて彼の元へ走り、そして両腕で抱きしめてしまいたい気持ちになった。しかし、ディーノも数千の人間を束ねるマフィアのボスだ。無闇に個人的感情を優先するべきではない。同じくマフィアのボスである沢田綱吉の立場を危うくしてしまう可能性だってある。



「……ツナ、明日、待ってるからな」


 携帯電話をきつく握りしめて、ディーノは囁く。


「おまえが俺んとこに来んの、待ってる」


 はい、と素直さが感じられる声音で綱吉は返事をした。


『明日、必ず『大切なもの』を受け取るために、ディーノさんのところへ行きます。――だから、待っていてください』



 綱吉の言葉を聞きながら、ディーノは目を閉じる。




『……オレのこと、待っていてください』





《高い高い崖の上、二匹の獅子は互いを見つめ合いながら、深い谷底の存在を思い知る》