04:届くのに触れられない距離






 今日から三日前。

 ある男が死んだ。


 男は沢田綱吉が高校を卒業してイタリアを訪れる前から、ボンゴレの私邸で九代目の身の回りの世話の一切を取り仕切っていた。綱吉が十代目としてボンゴレの私邸で暮らすようになってからは、男は綱吉の専属となって彼の身の回りの世話を請け負うこととなる。

 イタリア語がうまく話せない綱吉のために、すでに六十近かった男は、九代目から綱吉へと主人が変わることを知らされた日から約一年で、日本語を独学で勉強をし、会得してしまった。よく知った守護者たちと一緒だったが、異国の地ということもあり、不安でいっぱいだった綱吉は、男が日本語を理解できると知って、少なくとも私生活では、意志の疎通が可能だと分かると、綱吉の気分は幾分か晴れやかになった。そして、綱吉は男が自分のために日本語を習得したことを知り、その心遣いを嬉しく思い、自らのイタリア語が上達するようにと自ら勉強に励むようにもなった。

 由緒ある血筋としての品格のための作法やマナーは男から教わった。リボーンが教えた教養のほとんどはマフィアとしてのルールが主で、品格というものとは別のカテゴリーだった。おかげで綱吉はそれから半年ほどで、どの社交場に行っても恥を晒さない程度には振る舞えるようになった。

 だから綱吉は男の事を信頼していたし、男を敬愛していた。礼儀正しく、いつでも冷静で、六十ちかい年齢とは思えぬ思考の柔軟さと知識の豊富さ――、隙のない男だった。


 その男が死んだ。


 理由は簡単で、簡潔で、一言だった。


 報復。


 側頭部に銃弾を一発撃ち込まれて死亡。



 男には身よりはない。

 彼は、九代目が寄付金を出していた孤児院出身で、九代目への恩返しのためにボンゴレの館へと奉公に来た人間だった。だから男の家族とよべるものは、ボンゴレファミリィだけなのだ。
 男はボンゴレの争いごとやもめ事には関わっていなかった。疲れ切った綱吉が家に戻ったときに労いの言葉をかけ、手渡されたくたびれたスーツをクリーニングに手配し、温かい紅茶を入れる。男はほとんど町に出ることもなく、館のすみずみまでをきれいに整え、執事長という立場にいることなど想像もつかないほど、勤勉に働いていた。


 男が死んだのは、ホテルのロビーだった。


 男が死んだ日、綱吉は朝方までベッドの上でいくつかの報告書を読んでいた。散らばっていた紙のなかに、重要な契約の書類が紛れていて、なくすと大変だからとベッドサイドへと取り除いておいた。それがいけなかった。うとうとと眠っていたところを男に起こされた綱吉は、慌ててベッドのうえの書類だけをかき集めて、執務室のある別邸へと出発してしまった。その日の午後、契約相手との待ち合わせも間近となり、別邸を出ようとしたときになり、ようやく契約書を私邸のベッドルームにおいてきたことを綱吉は思い出した。リボーンの呆れというよりも軽蔑の眼差しに背中を突き刺されながら、綱吉は私邸に電話をかけた。出たのは男だった。綱吉は男に「書類を持ってきて」と頼んだ。男は「分かりました」と答え、契約相手が待つホテルロビーで待ち合わせる約束をとりつけ、電話は切られた。
 
男は書類を封筒にいれて私邸を出た。そもそも、男ではなく、他の執事やメイドが電話に出たとしたら、男は死ななかったのかもしれない。しかし、男が死なずとも、他の人間が死ぬ運命になっていただろう

 綱吉とリボーン、そして護衛についていたのは雲雀だった。ホテルロビーのソファに座っていた綱吉の左右にリボーンと雲雀が立っていた。そわそわと時間を気にしながら、綱吉はホテルの回転ドアを見つめていた。男はやってきた。イタリア人らしからぬ、英国紳士のような出で立ちの男は、ロビーを見回したあと、綱吉を見つけると優雅に微笑んで、かるく頭をさげる。綱吉は笑顔を浮かべて席を立ち、歩み寄ってくる彼に走り寄った。

 男から書類を受け取り、綱吉は男と何気なく会話をした。男は綱吉の言葉をにこにこと微笑みながら聞き、ときおり絶妙の間合いで相づちをうつ。リボーンと雲雀は少し離れた場所でその様子を見ていた。綱吉は男の頬にまつげがついているのに気づき、指でそれを取り払おうと男の顔に手を伸ばした。

 刹那。

 耳をつんざく轟音と共に、綱吉の顔に赤いものが飛び散った。男がよろめいて、綱吉の体にもたれかかる。綱吉は男を支えきれずにもつれるようにしてその場に座り込んだ。リボーンの怒鳴り声。周囲の人間の悲鳴と恐慌のざわめき。男の左側、回転ドアの付近に拳銃を手にした十代の少年がひとり立っている。雲雀は走り出していた。拳銃を撃って愕然としていた少年の腕をたたき落とし――骨の折れる音がした――、容赦なくその側頭部へトンファーを叩きつける。少年の体はねじれるように吹っ飛び、磨かれた床を数メートル滑ってロビーにあるフロントのカウンターに背中から衝突してとまった。

 綱吉は男を抱えなおした。男に息はない。いつも清潔に整えられていた白髪は真っ赤になり、頭蓋骨にあいた穴からはとめどなく血が流れ出してくる。


 男は死んでいた。


 綱吉はリボーンに「怪我はないか」と聞かれたことを覚えていなかった。

 まだ温かい男の死体を抱えながら、綱吉は瞬きすら忘れて男の顔をじっと見つめる。

 綱吉の目からは涙は流れてこなかった。



×××××




 男が死んだ情報は、その日のうちにディーノの耳に入った。

 もっとも正しく言えば、男が死んだことにより、半狂乱になった綱吉が病院に担ぎ込まれたという情報だった。初めは意味が分からなかったディーノだったが、ロマーリオたちにに事情を調べさせると、事の次第が明らかになった。

 男がどんなに綱吉を大切にしていたのか、綱吉がどんなに男を信頼していたのかは、ファミリィ内でも有名なところだった。しかし、男は一般的な知名度はなく、名前も顔も知られていないはずだった。

 調べてみると、綱吉の就任式の際、地元の新聞記事にボンゴレの特集記事が掲載されたときがあった。掲載された十枚ほどの写真のなかに、豪奢な調度品が並ぶ控え室にて、綱吉の背後に立ち、彼が礼服に着替えるのを甲斐甲斐しく手伝っている男の姿があった。綱吉も心なしか男のことを信頼し、安心して背後を任せているような表情である。綱吉はそのころイタリア語がまだ不十分で、男が通訳がわりとなっていたため、就任式のときの写真ではまるで秘書のようにほとんどの写真に写り込んでいた。

 そして男を撃ち殺した少年。

 こちらも調べはすぐについた。孤児だった少年はとあるファミリィの人間たちと親しくなり、十六歳になったらファミリィに見習いとして入ることを約束していた。十二歳という若さで、すでに拳銃すら扱えるように訓練させていたファミリィの思惑は、彼を利用しやすい手駒にしたかっただけだろうが、誰からも求められたことのなかった少年は、マフィアになることこそ、幸せへの道だと思い、必死にファミリィに認めてもらおうとしていたようだった。

 しかし、そのファミリィは非人道的な仕事によって日々の糧を得、数々の人間を苦しめている組織だった。調査をしてそのファミリィへ注意勧告し、やめなければボンゴレの名の元に制裁をくわえるとの書状をボンゴレの名で綱吉が送った。相手側はそれを突っぱねたうえで、ボンゴレの傘下に入っているファミリィを次々と襲撃し、宣戦布告をしてきた。数人の部下の命を奪われた綱吉は、ファミリィを守るボスたる責任を果たすため、自ら守護者達を引き連れてそのファミリィを完膚無きまでに蹂躙した。壊滅したファミリィは名前すら消滅し、跡形もなくなり、悪事のレールも払拭された。

 少年はボンゴレを恨んだ。

 憧れだったマフィアへの夢が絶たれた彼は、何もかも失った絶望の果てで、あることを思いついた。

 少年が大事にしていたものを奪った人間を苦しめるためには、殺すよりも目の前で人が殺された方がより効果的だと。


 ボンゴレの前で大切な人間を殺してやろうと。


 少年は図書館でボンゴレに関する新聞記事やゴシップ記事などを読みあさり、ボンゴレ関係者の顔を頭に刻み込んだ。それからは拳銃を持ち歩き、毎日毎日、ボンゴレが利用したことのあるホテルやレストラン、さまざまな場所をうろついた。ボンゴレの予定などを調べる手段が少年にはなかったのだろう。少年がうろつきはじめたのは三ヶ月前からで、それまで綱吉と一度も遭遇しなかったのは、当然の確率だった。出会える確率などは運命的な確率でしかない。少年とドン・ボンゴレは出会うことはなく、少年の恨みと憎しみが風化する方が先になる確率の方が高かったに違いない。


 だから今回のことは、最悪の偶然としか言いようがない。

 綱吉が契約書をベッドに置き忘れたのも。

 電話をとったのが男だったことも。

 少年が綱吉を見つけたことも。

 少年が男の顔を覚えていたことも。

 すべてが折り重なって、事件が起きた。


 少年は綱吉の前で男を撃ち殺した。しかしその後、雲雀によって両腕の骨を折られ、頭を殴られたことによって、彼は重体となっている。助かるか死ぬかは半々だという。男の死体は病院にて、頭の傷をふさがれたあと、ボンゴレの私邸に運ばれた。棺をのせた車が出ていくのを見送った綱吉が、突然半狂乱になって何かを叫びだし、硝子の自動ドアを拳で何度も殴って硝子を割ったらしい。一緒にいたリボーンが取り押さえようにも体格差がありすぎて無理だった。殴られ、蹴られ、引っかかれても、リボーンは綱吉を抑えようと必死になったらしいが、やはりそれは何の意味もなかった。綱吉は駆けつけてきた男性医師と男性看護士三人の手で取り押さえられ、その場で鎮静剤を注射された。


 綱吉はそれから三日経ったいまも、病院にいる。


 ボンゴレのボスが精神的異常をきたして入院ともなると、いままで均衡を保っていた世界のバランスが崩壊しかねない。綱吉は偽名が表示された個室に軟禁状態で、一部の看護士と医者しか彼の正体をしらない。もしも彼らの誰かが秘密をもらせば、ボンゴレの守護者たちがそれを必ず突き止めて、殺しにくるのだと充分に脅したせいか、情報が漏れる気配はいまのところないらしい。

 ボンゴレは六人の守護者それぞれがうまく立ち回り、組織としては何の問題もなく機能しているようだったが、やはり中心に綱吉がいないと違和感があった。ディーノはボンゴレとは同盟を組んでいるファミリィのいちボスなので、他ファミリィの問題に足を踏み入れることはできない。

 本来ならばすぐにでも病院に駆けつけたかったが、綱吉にも落ち着く時間が必要だと思い、自粛していた。それにディーノが慌てて病院に向かえば、いったい何があったのだろうと周囲に知れることとなる。

 キャバッローネでの仕事が終わったディーノはロマーリオの運転で、隠れ家のひとつに戻った。普段はあまり着ないスーツに袖を通す。落ち着いた色のネクタイをしめ、髪をワックスでなでつけてオールバックにして、変装用の細い黒縁の眼鏡をして部屋を出た。再び、ロマーリオの運転する車に乗り、病院に向かう。



 緊急用の出入り口から病院に入って行くと、深夜の病院ロビーの安物の長いすに座っている小柄な黒いかたまりを見つける。近づいていくと、うつむいていた顔が持ち上がり、彼のトレードマークであるボルサリーノのつばが上向く。


「――ああ、ディーノか」


 一瞬怪訝そうな顔をしたリボーンだったが、ディーノだと気が付くと肩の力をぬく。幼さは残るものの、整っている彼の顔はひどいものだった。寝不足によるものなのか、精神的なものなのか顔色は悪く、表情も不敵さのかけらもなく、疲れ切っているようだった。額や頬にはアザがのこり、ひっかき傷が顔や首に赤く線のように残り、彼の幼い小さな手には噛み跡らしき歯形が赤く浮かんでいた。もしかしたら、彼がスーツを脱いだら、体にも同じような跡があるのかもしれないと思うと、ディーノは綱吉に会うことが恐ろしく思えた。


「大丈夫か?」
「――さあ、な」
「……素直だな。いつもなら、ふざけんな、とか言いそうなのに」


 リボーンはうつろな顔のままで床を見つめている。いまだかつて、こんなにも彼が憔悴しているところを見たことはない。胸の内にひろがる不安が増し、ディーノは少しずつ足下から緊張が忍び寄ってくるのを感じた。薄暗い病院のロビーに、自動販売機のモーター音だけが低く唸るように響いている。まるで世界が終わる日のように不気味な夜だった。

「……なあ、ツナの病室は? っていうか、おまえ、なんでここにいんの? 側にいてやらなくていいのか?」

「…………ないんだ」

「うん?」

「すこし、離れてないと、オレが耐えられない。オレまで気が狂っちまう」

「そんなにひでぇのか……」

 リボーンは歯形とひっかき傷が浮かぶ両手で顔を覆う。泣きだしたのかと思ったが、彼は静かに息を吐き出しただけだった。


「急に何回も謝りだしたと思ったら怒り出したり、すべてに当たり散らしたり、泣き出してわめいたり、かと思うとけろっとして笑ってたりして、何かのスイッチが壊れたみてーで。――さすがのオレも、ちょっと、な。あいつと一緒にいるとオレまでおかしくなっちまいそーだ」


 ディーノは、ボルサリーノごしにリボーンの頭に手をのせた。いつもならば絶対にそんなことを許しはしないリボーンは、ディーノの手のひらを受け入れ、振り払うことはなかった。それほどに彼は弱っているのだろう。ディーノははがゆい思いで、幼い元・家庭教師の疲弊した肩を見下ろす。


「あいつがボスに就任してから半年、初めてなんだ、目の前でファミリィが死ぬのは。いつも書類上で報告を受けたり、死んだあとで葬式に行ったりはして、ファミリィの死は経験してたが。目の前で殺されたのは今回が初めてなんだ」

「――それは、マフィアとしての宿命みてぇなもんだからな……。どうしたって避けて通れねぇよ……」

「それはオレも理解してる。ツナにも言い聞かせてたし、理解させてた。だがな、死んだのは名前や顔だけ知っているファミリィの一員じゃねぇ。ツナがイタリアへ来た日から、ツナのためにすべてを捧げて尽くしてきた男が死んだんだ。ツナにとってあいつは、第二の父と言っても過言じゃなかった。あいつもツナのことをよく理解してよく尽くしてくれてた。……なんで、あいつなんだ……あいつじゃなきゃ、まだ、ツナは――」

 リボーンはうつむく。
 ディーノはボルサリーノから手を引いた。

「病室は?」

 リボーンが長椅子から立ち上がる。

「ついて来い」
「いや、お前はここにいろ。俺はひとりでいいから」

 リボーンは首を振る。

「オレもいく。――お前ひとりで行かせる訳にはいかねぇ」
「どうして?」

 リボーンは歩き出す。
 ディーノは仕方なく彼の跡をついていった。


 二人分の足音が廊下を歩いていく音が廊下の端から端まで響いているようだった。誰ともすれ違わない。エレベーターに乗り、三階へ向かう。三階でエレベーターを降り、ナースステイションを通り過ぎて廊下を歩く。黙々と二人は歩く。


 綱吉の病室は他の患者が入院している部屋とは隔離されたかのように、奥まった場所だった。リボーンは病室の反対側の部屋の引き戸を開ける。


「戻った。変わりは?」

「特にありません。鼻歌を歌ってるだけです」

「そうか」


 ディーノは部屋の中をのぞいて眉をよせる。そこには五台のディスプレイが並び、あらゆる角度から病室の内部を映し出していた。病室に監視カメラが設置されているのだ。ディスプレイの前には白衣を着た男が座っていた。おそらくボンゴレが用意した医者か、看護士の一人なのだろう。リボーンは引き戸を閉め、廊下を足取り重く歩き、病室の扉に手を掛ける。


 リボーンは戸を引かない。


「リボーン?」
「ディーノ」
「うん?」
「ツナを見ても動じるなよ。いまのツナは、……綱吉はいつもの綱吉じゃあない」
「――覚悟はしてる」

「絶対に逃げ道を許すような慰め方をするな。そんな言葉はなんの意味もない。『こんなこと』を乗り越えられないようじゃあ、この先、こいつは本当に精神を摩耗させて死んでいくしかない。もう十代目になっちまたんだ。後にはひけねぇ。ここが踏ん張りどころなんだ。あいつが死んだことに対しての、優しい言葉も、逃げ道も、与えてやれねぇ」

 リボーンはかすれるように声を押しだし、引き戸の取っ手を強く握った。その肩が震える。泣いているのかと思ったディーノが彼の横顔をうかがうが、彼は疲れた表情のうえに普段の無表情の仮面をかぶりなおしていた。

「だんだんとは、落ち着いてきてるが、油断はできねぇ。――絶対同情するな」
「分かった」
「開けるぞ」
「ああ」


 軽い音をたてて、引き戸が開け放たれる。


 病室は明るかった。と、感じたのは、壁や天井、パイプベッドから布団まで、すべてが真っ白だったからかもしれない。部屋の真ん中におかれたベッドのうえで、綱吉は上半身を起こしていた。その両腕が布によってベッドの横に結びつけられていることに、ディーノは思わず怒りを感じた。が、よく見れば、彼の手には無数の噛み跡が残っている。拘束していなければ自傷してしまうのかもしれなかった。

 彼は無表情のまま、ぼんやりと前を向いて、なにか鼻歌を歌っているようだった。ディーノが聞いたことのないメロディだった。


「ツナ」


 リボーンが声をかけても、綱吉は何もない壁を見つめたままで動かない。鼻歌は続いている。リボーンは綱吉に近づいていき、その背中に触れる。それでも綱吉は鼻歌を歌うのをやめない。


「ツナ。起きてると体が辛いだろ。寝てろ」


 リボーンがもう一度「ツナ」と呼ぶと、そこでようやく綱吉はリボーンを見た。

「ああ、リボーン。帰ってきたんだ。おかえり。起きたらおまえがいなかったから、おまえも死んだのかと思ったよ」

「勝手に殺すな」

「だってみんないなくなっちゃうんでしょう? 死んじゃうんでしょう? オレ、一人ぼっちになっちゃうんでしょう? みんな死んじゃうんだ。オレをおいて。オレはボスだから生かされて、ボスだからみんなを盾にして、みんなを巻き込んで、死なせちゃうんだ。ああ。きっとみんな死んじゃうんだ。オレがボスだから。駄目なオレがボスだから。みんながかわいそう。オレがボスになったから死んじゃうんだ。あの人も死んじゃった。恨まれるべきなのはオレなのに。死ぬべきはオレなのに。殺されるのはオレだったのに。あの人には幸せになって欲しかったのに。オレなんかのために死んじゃった。かわいそう。あの人がかわいそうだよ。あんなふうに死ぬなんて、オレに関わったせいだったものね。あの人がずっと九代目に仕えていたらあんなふうに死ぬことなんてなかったんだよね。オレが悪いんだよね。オレが油断してたから、あの人を目の前で死なせたんだよね。ひどい人間だよね、オレって。駄目で酷いやつで生きてても仕方ないよね。ねえ、リボーンもそう思うでしょう?」


 狂気的に綱吉は笑う。


 リボーンは無表情のまま、背中にのせていた手で何度も綱吉の背中を撫でていた。

 急に綱吉の顔がバッと動き、ディーノを見た。ディーノは驚いて思わず後退しかけた足をすんでの所で押さえた。見開かれた綱吉の目が、くるりと表情が入れ替わる人形のように一瞬で微笑へと変化する。

「ああ。ディーノさん。お見舞いに来てくれたんですか? ありがとうございます」

「こんばんわ。ツナ」

「ふふふ。こんな見苦しい姿ですいません。オレね、別にどこも怪我してないんだけど、リボーンがここにいろって言うんですよね。おかしいですよね。オレ、平気なのに。こんなに元気なのに、病院にいろっていうんです。オレ、やることいっぱいあると思うんだけどなあ。みんなもね、休んでていいって言うんですよ。やっぱり、こんなオレだから、もうボスとしては認めらんないから、いらないってことなんですかね?」

「それは違うんじゃないのか……?」

「そうですか? まあ、そんなのはどっちでもいいんです。ディーノさん、今日はなんだか変わった格好ですね。日本のビジネスマンみたい。格好いいですね――」

 じぃぃっと綱吉の瞳がディーノを見つめる。瞬きすらしていないかのような視線に、ディーノは居心地が悪かった。ふいに綱吉の顔から笑みが消えた。

「……それ」
「うん?」

「あの人と同じブランドですね。そのスーツ。あの人が三十年以上愛用してるブランドのですね。オレね、今年の誕生日にそこのスーツを贈ったんです。もったいないし、着ていく場所がないって彼は言ってましたけど、オレが着て欲しいって言ったら、屋敷の中でだけだったけれど、着てくれました。落ち着いた色合いとデザインだから、彼によく似合ってた。あの日もそのスーツだった。オレは嬉しくって彼に聞いたんだ。そのスーツ、オレがプレゼントしたのですよねって。彼はそうですって答えてくれて。この服は生涯大切に着ていきますからねって言ってくれて。オレ、彼に喜んでもらえて本当に嬉しかった……」


 リボーンの表情が危険を察知したかのように強ばった刹那――。



「あぁああぁぁあぁぁぁあぁああああぁあぁぁぁああ!!!!!!!!」



 大声をあげて綱吉が両腕を振り上げようとした、が、拘束されている腕は胸の辺りまで持ち上がっただけだった。ベッドが振動し暴れる足が布団を蹴り上げる。リボーンはベッドに膝で乗りあげ、背中側から綱吉の腕を抑えるように彼を両腕で抱きしめる。それでも彼は暴れるのをやめない。



「なんで!! なんで!? オレが死ねばよかったのに!!! オレが殺されればよかったのに!!!! なんで彼なの!? なんで彼が死ぬの!? ああぁああぁぁぁあああ! いやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!!! もういや!!! お願い! お願いだから!! もういやもういやだよ! いやだ! やめる! マフィアなんてもういや! 帰りたい日本に帰りたい!! 帰して! 日本に帰して!!! こんなとこにいるのはいや!! いやだ! いやあぁああああぁああぁあっ!!!!」


 がくがくと頭を振って綱吉は叫び声をあげる。リボーンは目を閉じ、暴れる綱吉を抱きしめている。


「駄目だ。ツナ。日本には帰してやれない」

「帰る! 帰らせて!! なんでオレをマフィアにしたの!? リボーンのせいだ! リボーンがオレをマフィアにしたから! オレはこんなに辛いんだよ! ひどいひどいひどいひどい!! オレがこんなに辛いのにおまえはまだオレに人の死に様をみろって言うの!?」





 リボーンは青白い顔で黙っている。

 ディーノは壮絶な空間を前に立ちつくすしかなかった。






 どれだけの時間、リボーンは正気でない綱吉の相手をしていたのだろう。本心からではない言葉だとしても、綱吉の声と言葉で続く責め苦は、リボーンの心を砕くには充分だろう。


 綱吉はしばらくもがいていたが、次第にそれは弱まっていき、獣のような呼吸は嗚咽へと変わっていった。

 泣き出した綱吉は、腕でリボーンの腕に触れようとしたが、拘束のひものせいでリボーンの腕に触れることはできなかった。


「ごめん。ごめんね。リボーン。さっきのは本当のことじゃないんだ。オレ、おかしいんだ。なんか、コントロールがきかなくて。ひどいこと言ってごめん。――だからおまえまで、いなくならないでね? ずっと側にいてね? おまえはいてくれるよね?」

 リボーンは綱吉を抱きしめる腕に力をこめる。

「そんな約束に意味はない」

「……ずるいやつ……約束くらいくれたっていいじゃない……」

 そう言って綱吉は微弱に笑む。


 病室に入ってから見た綱吉の表情の中で、いちばん綱吉らしい表情だった。


 おそらくは、どの叫びも綱吉の心にある言葉なのだろう。人間なのだから、いくつもの思いや葛藤を抱えていることは当然だ。突然のことだったし、大事な人間が死んだことを受け入れるには、綱吉は若すぎた。彼の母親は日本だし、父親は門外顧問として病院にいる彼の穴埋めのために立ち回るのに忙しく、彼の側にはいられない。必然的に、彼の側にはリボーンがいるしかない。六人の守護者も、ファミリィのバランスをとるので精一杯で、病室にすら近づけないのだろう。

 監視カメラが仕掛けられた何もない真っ白な部屋で、綱吉とリボーンはどれだけ苦しんでいたのか。ディーノはもっと早く様子を見に来るべきだったのかもしれないと悔やんだ。

 リボーンは綱吉の背中に額を押しつけるようにしたまま、彼を抱きしめ続けている。彼が泣いているとしてもディーノからは分からなかった。

 綱吉が泣きはらした顔でディーノを見た。部屋に入ったときよりは、瞳には意志が宿っているように見えた。


 ディーノは綱吉が寝ているベッドへと近づいていった。


「――見苦しいとこ、見られちゃいましたね」

「……いいんだ。俺にも覚えがある」

「ディーノさんでも?」

「俺だって、生まれたときからマフィアだった訳じゃないからな」

「……ずっと前から、いつか、こういう日がくるのは、覚悟してたんですけどね。覚悟ってしていても、なんの効力もありませんでした。泣き叫んだって、どうにもならないの分かってますし、リボーンを責めたってリボーンもオレも苦しいだけで、なんの解決にもならないの、分かってますし……。みんなにこんな姿見られたくなくて、この部屋から出られなくなっちゃったし……。オレ、気が狂ったでしょうか……」


 綱吉は視線を自身の手元に落とす。無数の歯形の後がのこる綱吉の手。ディーノはその手に触れたいと思った。触れることの出来る距離だった。けれど思うだけだった。今の彼に手を伸ばせば、ディーノは彼のために何もかもを投げうってしまう、愚かな男に成り下がってしまう。それは駄目だ。ディーノの肩にはたくさんのファミリィの生活と運命がかかっている。そのかわり、ファミリィたちはディーノのために何もかも惜しまずに協力をしてくれているのだ。彼らを裏切ることはできない。


「お前は狂っちゃいねえ」

 リボーンが低く唸るように言った。

「……だと、いいな」

「いつまでこんなとこでのたうち回ってんだ」

「まったく、リボーンはいつでも厳しいよなぁ……」

「お前が不甲斐ねーのがいけねぇだろ」

「はいはい。――すいませんね」


 リボーンが綱吉の体から腕をとく。ディーノとは向かい側のベッドサイドに両足をおろし、床に足をつけた。



「リボーン」



 拘束された腕を可能な限り持ち上げ、綱吉がリボーンを呼ぶ。リボーンは布で拘束された彼の手を握り、パイプベッドの骨組みを背に、床にじかに座った。綱吉はリボーンの小さな手を握り、安心したようにすこし体の力を抜いた。


 ディーノは複雑な胸中を顔に出さないように必死でこらえた。抱きしめて、慰めの言葉をかけてやりたい、逃げ出したっていい、一緒に逃げちまおう、そんな言葉を言えたらと思う。こんなふうに彼が苦しむことが分かっていたのに、同じ世界で肩を並べて生きていけることへ期待していた過去の自分を呪ってやりたかった。


 綱吉はリボーンの手を握っている。
 リボーンは綱吉の手を握っている。


 そこにディーノがくわわる余地は残されていなかった。


 右手に小さなヒットマンの手を握りしめ、綱吉はドン・ボンゴレとして、同盟ファミリィのボスであるディーノを見上げた。


「――すぐには無理だけど、ちゃんとしますから……。もう少し、時間をください」

「ああ……、そうだな」

「ひとつ、頼んでもいいですか?」

「ああ。いいよ。なんだ?」

「あの人のお墓に、千ドルで買えるだけの白い花をお願いします。支払いはボンゴレ当てで」

「いいのか、リボーン」

「好きなようにやらせてやれ。どうせこいつの給料から天引きだ」

「そう。それでいいよ。――お願いします。オレ、ここからは、まだ、出られないんで」

「必ず約束する」


 綱吉は礼を口にして、頭を下げた。


 まだ二十歳にもならない、ふつうの日本人青年のような彼が、イタリアでも最大のファミリィのボスなのだ。彼の肩にはディーノとは比べものにならない生命の重さが載っている。それを分かち合えるのは同じファミリィのある人間であって、同盟ファミリィであるディーノは、その重みを分かち合うことはできない。ディーノですら、彼の肩の重みの一部だ。


「あと一週間ください。オレ、それまでに、落ち着きますから。みんなのためにも、ここから出なきゃいけないから――。ねえ、ディーノさん、オレが元気になったら、一緒に乗馬に行きませんか? オレ、乗馬ってやったことないんです。あの人も昔、九代目から乗馬を習ったことがあって、楽しかったって言ってたんですよ。だから、やってみたいなって思ってるんで……」

「ああ、いいよ。俺でよければ教えてやるよ」

「ありがとうございます」

 綱吉は微笑んだ。彼の顔もまた、リボーンと同じように疲弊している。優しい言葉、優しい抱擁、キス、彼を甘やかし、なだめることのほうが簡単だった。けれど、それは彼を駄目にする。彼は自分で乗り越えようとしている。彼の成長を妨げる優しさは、いまは必要ではない。


 ディーノはいつものように陽気な笑顔を浮かべる。

「――それじゃあ、ツナの顔も見られたし、オレ、行くわ」

「はい」

「ゆっくり休んで戻ってこいよ。みんな、お前が帰ってくんの、待ってんだからな」

「はい」


 綱吉は、リボーンの手をつよく握ってうなずく。ディーノの側からはリボーンがどんな表情をしているのかは、ボルサリーノが邪魔をして伺うことはできなかった。


「じゃーな」
「また、今度」


 病院の引き戸をあけて廊下へ出る。振り返り、手を振ると、綱吉はリボーンの手を握っていない方の手をもちあげ、かるく左右に振った。ベッドと手首とをつなぐ紐も同じように揺れる。



 軽い音をたてて引き戸が閉まった。



 廊下は静まりかえっている。誰かが歩いている様子もない。ディーノは片手をズボンのポケットにひっかけて細長く続く廊下をぼんやりと眺めた。



 明日の朝いちばんにロマーリオを連れて花屋を訪れ、白い花を千ドルと言わず、ディーノの金で花屋にある白い花をありったけ買い込んで、男の墓へ行こう。



 心を病んで苦しんでいる彼に触れることは出来ずとも、彼を愛してくれた男への感謝ぐらいは、同盟ファミリィのボスであるディーノにもできることだ。



 沢田綱吉のために生き、沢田綱吉のために殺されていった一人の男の冥福を祈って。





 男へ祝福の言葉を小さく呟いて、ディーノは一歩を踏み出した。





『End』