02:目に見える隔た






 手のひらに収まってしまう小さな箱。
 そのなかには七つの指輪が納められている。






 豪奢なシャンデリアが三つ縦方向に飾られたボンゴレの屋敷にある食堂にディーノはいた。

 照明の明度はしぼられていて薄暗く、数十人がいっきに食事をできる広いテーブルのうえには料理などはいっさいのっていない。きれいに整えられたテーブルセットもなく、艶めいたテーブルの落ち着いた木目に、シャンデリアの控えめな明かりが反射していた。

 ディーノはテーブルの下座のあたりに立っていた。十数メートル先の上座のあたりには、沢田家光を中心とした門外顧問チームのメンバーが円陣を組んで、これからのことについての打ち合わせをしている。

 ディーノの役割については、内々に家光からすでに聞いて知っていた。ディーノは箱を受け取るためにボンゴレを訪れている。

 ロマーリオを含めた部下たちは食堂の外で待っているように、話が始まる前に命じておいた。呼び出された際、ちらりと聞いた話の内容だけで、ディーノは自分自身が冷静でいられなくなることが予感できた。出来ることなら苛立つところなど部下には見られたくはなかった。


 ディーノの両目はテーブルの端に置かれている箱を眺めていた。

 ドン・ボンゴレとドンを守護する六人の守護者のための指輪。


 七つの指輪の奪取を目指し、不穏な動きをしているヴァリアーたちを察知した門外顧問が反撃にでようとしていた。九代目と親しいディーノは内密に招集され、こうして新しく始まる物語の発端のひとつを担うこととなった。

 沢田家光とそのほかの門外顧問の人間がしている会話は耳には入ってはこない。声をひそめている訳ではないのだから、彼らの声はディーノの耳にも聞こえては来るのだが、聞こうとしていないのだから、聞こえていないことと一緒だった。

 箱は古めかしいアンティーク調で重厚だ。

 ボンゴレのための指輪。
 ドン・ボンゴレのために集められる守護者達の指輪。
 キャバッローネのディーノが持つことは許されない指輪。

 ディーノは、上座のあたりで議論を交わしている人間たちに気づかれないように、そっと舌打ちした。めざとくそれに気がついたのか、一人の少年がそっとディーノを見た。彼は議論には加わらず、影のように家光の側に控えていただけだった。顔の半分を長い髪でおおい、大人しそうにしていた彼は、足音をいっさいたてることなく歩いて、ディーノに近寄ってくる。彼の行動によって、門外顧問のメンバーたちは会話を中断することはなかった。

 ディーノは人懐っこい顔を作り上げ、内側で荒れ狂っていた感情を無理矢理に腹の底へ押しやった。
 近づいてきた少年は、深々と頭をさげたあとで、口を開いた。


「ドン・キャバッローネ。具合でもお悪いのですか?」

「いや。ちょっと嫌なことを思い出しちまってな」

「そうですか」

 そういってうつむいた仕草が、沢田綱吉と重なる。よく観察してみれば、少年と綱吉は背格好も年の頃も同じくらいだ。ディーノは悶々とする苛立ちを忘れるために、少年に小さな声で問いかけた。

「おまえ、名前は?」
「申し遅れました。バジルと申します」
「おまえも門外顧問?」
「はい。親方様に師事しております」

 そういって彼――バジルは尊敬の眼差しで沢田家光の大きな背中を見た。家光は真剣な顔で門外顧問メンバーが喋っている言葉を聞いている。彼は戦闘能力にも知略にも経験にも長けた人間である。彼に師事しているのならば、バジルは相当の使い手だと思っても間違いはない。彼は誇らしく胸を張った。

「今回のことで、ようやくお役に立てる日がやってまいりました」
「――おまえが指輪を届けるんだってな」
「はい」
「一人で大丈夫なのか?」
「お心遣い、痛み入ります。しかし心配は無用です。拙者は全力で使命を全うするのみ」

 これから始まる事に対して緊張しているのか、興奮しているのか、妙に浮き足立った笑みを浮かべてバジルは指輪の箱をじぃっと見つめる。

 ディーノは嫌な気分になって、バジルから視線をはずす。

 彼が運ぼうとしている指輪が偽物だということをバジルは知らない。

 家光に心酔している彼は、指輪を相手に奪われまいと命を投げ出すことすら厭わないような危うさがある。ヴァリアー側に指輪の真偽について疑う余地を与えないためではあっても、彼の命を危険にさらしていることは事実だ。


「危険すぎる」

 思わず口に出てしまったディーノの言葉に、息をつくようにバジルは笑った。

「――危険でないことなど、この世界にありましょうか?」

 声をひそめてバジルは続ける。

「死ぬことが恐ろしいと思えるからこそ、我々は生きることに貪欲であり続けられるのです。もとより、拙者、死の覚悟などしてはおりません。無事に指輪をお届けし、使命を全ういたします」

 そう言って、バジルは視線をディーノから外した。
 ディーノもつられてバジルの視線の先を見る。

 計画についての話し合いが終わったのか、家光が近づいてくるところだった。彼は大股で歩いてくると、ディーノたちの前で立ち止まった。

「バジル。頼んだぞ。指輪を奪われることだけはなんとしても阻止せねばならん」
「はい。親方様」
 家光は沈痛な面もちでバジルを眺める。
「――日本で会えると信じているからな」
「はい」


 バジルは意気込むように頷き、テーブルのうえの箱を大事そうに両手で持ちあげて持った。彼はディーノを見て、にっこりと年相応に笑顔を見せる。


「では、拙者、いってまいります。また日本でお会いいたしましょう」
「――無理はするんじゃないぞ」
「ええ。親方様。心得ております。――また会う時まで、どうぞ達者で」


 深々と一礼をしてバジルは部屋を出ていった。家光は彼の足音が遠ざかっていくのを目を細めて聞いていた。


「役者だよな、あんたも」

 家光は首を横に振った。

「……仕方あるまい。絶対に失敗がゆるされない策なのだから」
 家光はスーツの内ポケットに右手を入れ、バジルが持っていった箱とそっくり同じ箱をテーブルの上に置く。

 本物のボンゴレリングが納められた箱だ。
 バジルが持っていったものは、精巧に作られた偽物なのだ。
 ディーノの脳裏に一瞬だけ、バジルの微笑がよみがえって消える。


「こちらが本物だ」


 ディーノは家光からテーブルのうえにある箱に視線を戻す。この箱を日本に持っていき、久しぶりに綱吉と顔を合わせることになる。指輪を手に入れた彼は、きっとまた辛く傷つく目にあうだろう。

 だが彼は、仲間を――守護者を手に入れる。

 指輪を受け取ったその日から、生命の活動をやめるその時まで、綱吉のために動き、綱吉を守り、綱吉に永遠に忠誠を誓い続ける――六人の守護者。


 そこにディーノが立つ位置はない。


「……ノ、ディーノ?」


 家光の大きな手で肩を掴まれ、ディーノは思わずよろめいてしまった。


「どうした? 具合でも悪いのか?」

「いや。ちょっと、考え事をね」

「――本当にどうした? あまり顔色がよくないぞ。やっぱり、やめるか? 俺が持っていくか?」

「いや、いいよ。俺が頼まれたんだ。俺が持っていく」

 ディーノは手を伸ばしてテーブルのうえの箱を片手で掴んだ。

 箱は冷たく、思っていたよりも軽かった。

「必ずツナに届けるよ」

 箱を顔の前に掲げ、ディーノは言った。自分がどんな顔をしているのかよくわからなかった。とにかく家光に顔をみられたくなくて、ディーノは彼にさっさと背を向けた

「頼んだぞ。ディーノ」

 右手をあげて家光に答え、ディーノはドアノブに手を伸ばした。





×××××





 『閉院』の張り紙が張られたガラス戸を押し開け、ディーノは外に出た。冷えた外気にとっさに首をすくめる。まだ時刻は零時前だったが、道を歩いている人間はいなかった。ロマーリオを含めたキャバッローネのメンバーは、見張りの二名を残してすでにそれぞれが就寝していた。

 ディーノは見張りだった訳ではないのだが、布団に横になっても眠ることができず、一時間近くも寝返りをうつばかりで、眠れそうになかったのだ。病院の外へ行って来るとだけ部下に伝え、ディーノは医院の出入り口に向かったのだった。

 中山外科病院と書かれた大きな横看板がディーノの太股のあたりに設置されている。寄りかかるようにして看板に腰掛け、ディーノはぼんやりと空を見上げる。並盛の町の地図はなんとなくは分かっていても、夜に部下も連れずに一人で歩き出すと道に迷ってしまう可能性があるため、散歩をする訳にもいかない。

 ディーノが持ってきた指輪を、綱吉は結局、受け取らずに走って帰ってしまった。

 少なからず、ディーノはほっとしてしまった。彼がこの先、指輪から逃れることは出来ないとしても、ほんの一時であろうとも、彼とディーノとを隔てる要素が遠のくことに抵抗はない。


 ふいに、ジョギングのような足音が近づいてくる気配に、ディーノが顔をあげると、ジャージ姿の少年が、ぐんぐんと走ってくるところだった。短い黒髪の少年はディーノと目が合うと、あけすけな具合に笑う。


「あぁ、――ディーノさん。こんばんわー」


 ディーノの前で足踏みをしつつ、少年――山本は頭を下げた。

「なにしてんだ?」
「え、あー。ちょっと……」


 しっとりと汗がういている鼻の頭を指先でかきながら、山本は視線を彷徨わせる。山本の性格から考えて、昼間、スクアーロに手も足も出なかったことを悔いて走っている訳ではないだろう。いつもの日課なのかもしれなかったが、努力をしている姿を人に見られたくはなかったのかもしれない。


「ま。なんだっていいけどよ。――あんまり、遅い時間に走ってっと、危ねぇんじゃねーのか? 日本も治安が悪くなってきてっし」
「あー、平気じゃないっすかね。バット、持ち歩いてんで」


 言って、彼は胸の前を斜めにはしっている紐に指先で触れる。暗いせいか気がつかなかったが、彼はバッドケースを斜めがけにして背負っていた。リボーンが「山本のバット」と名付けているバットは、素早く振り抜くと日本刀になる曰く付きの代物だ。確かに山本と日本刀を相手に悪さをしようものならば、普通の悪漢では役には立たない。


「ディーノさんこそ、なにしてんすか?」

「いや……とくになにも。っていうか、敬語はよしてくれ。こそばゆい。さん、もいらねぇ」
「りょうかい。えっと、じゃあ、どうしてこんなとこに?」
「夜道だとこのへんの道もよくわかんねーし、ぼーっとしてたとこ」
「じゃあ、ちょっとそこのコンビニまで行かね?」
「コンビニ? 何か用事あんのか?」
「ちょうど休憩すっかなって思ってたんだ」


 ディーノは山本が嘘をついているような気がした。彼は時々、神懸かり的な天然さを発揮するが、それ以外は健全とした男子中学生である。おそらく、年上で外国人のディーノが、並盛の地理が分からないのを察知して、気をつかったのだろう。せっかくの誘いを断る理由もないので、ディーノは看板から腰を離してまっすぐに立った。


「んじゃあ、コンビニでも行くかあ」
「そうこなくっちゃ」

 歩き出していた山本が振り返りながら言う。

「あ、オレ、今月うちでバイトしたんで金あるからおごってやるよ」

 早足で山本の隣にまで追いつき、ディーノは笑って首を振る。

「おいおい。ガキにおごってもらうほど、俺はおちぶれちゃいねーぞ」
「いいって、いいって。ディーノにはツナがいつも世話になってるし」
「………………」
「ディーノ?」

 突然黙り込んだディーノを不思議そうに山本が見た。慌ててディーノははげ落ちかけた笑顔をかぶりなおす。

「いいって。イタリアのお兄さん、馬鹿にするんじゃねぇぞ! 財布にちゃんと――」

 ズボンの尻ポケットに右手で触れて、そこに財布がないことにようやくディーノは気がついた。そもそもディーノはいつもロマーリオと共に行動しているので、支払いのすべても彼が取り仕切っており、ディーノ自身が財布を持っていることなどまれであった。無言のまま引き返そうとしたディーノの肩を山本が掴む。

「だから、いいって。な?」

 少々のプライドが音をたてて崩れ去るのを感じながら、ディーノは山本の隣を歩く。

「あとで、きっちりおごり返すからな」
「そんときは美味いもんがいいなぁ」

 明るく笑いながら山本は言った。気持ちよく笑う人間だな、とディーノは彼の笑顔を眺めた。綱吉も救われることが多いだろう。彼の笑顔には人を惹きつけ、引っ張り上げる引力がある。綱吉にとっては、同世代の少年として憧れの対象にもなりえるかもしれない。 彼が雨の指輪を持つ守護者であることを綱吉は喜ぶだろうか。

 彼が兵隊となり生涯、離れることはない存在となることを、沢田綱吉は喜ぶのだろうか。

 あまりにもディーノが注視したせいか、山本が怪訝そうにな顔でディーノを見た。


「オレの顔、どっかおかしいん?」
「あ。いや――」

「なんか、ディーノとは、あんまり話した事なかったけど、――なんか、変だよな? 放課後のことと関係ある?」

 天然の山本に見抜かれるほどの自分の腑抜けぶりに、ディーノは呆れるより早く、脱力した。



 指輪に関してナーバスになりすぎている。綱吉がボンゴレのボスになることは、もうほとんど決まっている。ボスを守るために守護者が必要なことも理解している。その守護者には決してディーノがなれないことも理解している。理解はしているが納得はしていない、などと子供のように考えていることを、ディーノは誰にも言わずにいた。自分の思考回路にディーノはさらに憂鬱な気分になる。


「……いや、関係なくは、ないんだが」

 ぐずぐずと崩れていく嫉妬心を心の隅へとおいやり、ディーノは首を振る。

「結局は、俺の問題なんだ」

「よくわかんねーけど……。あんまり思い詰めねぇほうがいいって」

 山本の言葉にディーノは曖昧な返事をした。道の角を曲がると、数メートル先にコンビニの明るい照明が見えた。


 山本とディーノはコンビニに入って、山本はペットボトルの水と肉まん、ディーノは缶コーヒーを選んで購入した。バイトの少女が頬を赤く染め、珍しそうにディーノの顔をちらちらと見ながら会計をした。

 初めて会ったときの綱吉も、間近にみる外国人が珍しいのか、ちらちらと見ながら顔を赤くしていたのを思い出す。少女と目があったので、ディーノは微笑みを返してみた。少女は目を見開いて驚いたあと、さらに真っ赤になってしまった。


 会計がすんでコンビニの外に出たところで、山本がくすくすと笑い出す。山本から缶コーヒーを受け取ったディーノが怪訝そうに眉をよせると、彼はすぐに口を開いた。


「レジの子、ディーノの顔みて、赤くなってたなぁと思って」

「ああ、なんでかねぇ?」

「あはは、分かってて笑いかけたくせに! ひでーなぁ」

 山本はそう言って肉まんにかぶりつく。五口ほどでたいらげたあと、ペットボトルのキャップをあけて水を飲んだ。

「ディーノ、自分で格好いいの分かってて利用する人だよなぁー?」

「そりゃあ利用するだろう。もって生まれた才能を使わない手はない」

「ずるいなあ。オレももっと格好良く生まれたかった」

「山本だって格好いいだろう。ツナがよくお前のこと言ってたよ、山本は格好いいだって」

「ツナが? あはは、それは嬉しいなぁ。あいつはオレにとっては特別だから」

 思わず持っていた缶コーヒーを取り落としそうになり、ディーノは瞬時に缶を握る手に力を込める。山本は正面を向いて笑っていた。ふいに視線だけが動いて、ディーノの表情を探るように見た。

「ディーノも、そうだろ?」
「なにが?」
「ツナのこと」
「――話がみえないな?」
「はは。なに、急に大人ぶってるん?」
「………………」
「オレ、分かるんだよね」


 山本はあけすけに笑う。


「ツナのこと好きな人間に関しては、誰一人として逃さずに」

「ツナは良い奴だから、みんなに好かれてるだろう?」

「そりゃあ、みんなには好かれてっけど。そういうんじゃねぇーだろ、オレもあんたも」


 山本は歩調も笑顔も変えずに歩いていく。ディーノは彼の横に並んで歩きながら、山本の顔を横目で伺う。何を意図して会話をしているのか分からない。恋心の牽制というほどのプレッシャーではない、親友の身柄を心配している訳でもなさそうである。

 ディーノは缶コーヒーを片手に持ったまま、山本の質問に何も答えなかった。彼は前を向いたまま、話を続ける。

「これから、何が起こんのか、オレはまだよく分かっちゃいねぇけど、でも、ツナがまた何かに巻き込まれんなら、オレも一緒に巻き込まれてやるよ。あいつだけが痛い目みんのだけは避けてぇとこだし。――マフィアごっこ、なんて言ってられんの、もうそろそろ潮時なんかね……」

「山本、おまえ……」

「キャバッローネの跳ね馬さん。オレはね、なるべく『こっち側』にツナの居場所を作っといてやりてぇの。『そっち側』にどうしたって行くしかねぇんなら、ほんの少しの時間だって『こっち側』にいさせてやりてぇのよ。だからそのためだったら、オレは馬鹿みたいに騙されてやんよ、気づかないふりをして『こっち側』に居続けてやる――なぁ、分かってもらえる?」


 山本が立ち止まる。
 ディーノもつられて足を止めた。

 彼は、にぃっと意地悪そうに笑って片目を細めた。

「残念だけど、ツナはまだそっちにやらないよ」


 ディーノは挑戦的な山本の笑みに対して、とっさに舌打ちした顔を無表情に戻す。


「いつかはマフィアになるぞ」
「このまんまじゃあ、いつかはなるだろうなぁ」
「あの指輪をすれば、おまえは一生ツナの下僕だ」
「ま。そういう生き方もあるかもな」
「人殺しになるぞ」
「まだ殺してねぇから、ノーコメント」

 ふたをしたペットボトルのキャップを唇にそえ、山本は片目をつむる。

「あいつを守れる立場になれんなら、オレはそれと引き替えに捨てるものを選ぶよ」

 ディーノは缶コーヒーをあおって中身を飲み干した。空き缶を手に握りしめてディーノが歩き出すと、山本も半歩遅れて歩き出す。


「――なあ、ディーノ」


 ディーノの背中に山本は声を投げかけてくる。

「あんたには捨てられないものが多すぎる。だからあんたは捨てるな。オレや獄寺が、あんたが捨てられないもん、捨ててでもツナの側にいてやっから。あんたはあんたにしかできねえことをツナにしてやってくれよ。――なぁ?」

 山本の右手で力強く背中を叩かれ、ディーノは首をすくめる。年下の少年に発破をかけられるほどに情けない面でもしていたのかと、無理矢理に笑おうとしてみたが、卑屈な顔になっているような気がして落ち着かない。顔の片側だけで笑んでいるような山本の顔をちらりと横目でみてディーノは息をつく。


「俺はお前がうらやましいよ」
「そうか? オレはあんたがうらやましいけどね」

「俺が?」

「――オレはまだ人殺しじゃないし、『そっち側』がどんな世界か、正直分かってねぇ。『そっち側』だって、経験がものを言う世界だろう? あんたは自分の経験をツナに教えてやれる、どんなふうに振る舞って、どんなふうに対処して、どんなふうに処理をすればいいか、もうすべて分かってるんだろ? ツナが『そっち側』に行って、小僧の次に頼るとしたら、それはあんたしか居ないだろう」

「……ったく。お互いに相手の立場のが羨ましいのは、自分の立場が見えなくって、相手しか見えねぇからなんだろうな」

「ははは、だろーなァ」

 快活に笑う山本のくえない態度に、ディーノは彼が年下であることを忘れそうになっていたことに思わず吹き出した。殺伐と歪んでいた感情がなくなりはしないものの、雨上がりのときのように涼やかなものへと変化している。人間の性質とでもいうのだろうか。ディーノは山本の顔をしげしげと眺める。彼はディーノの視線を受けても、へらへらと笑うばかりで物怖じもしない。

「とんだ伏兵だぜ、お前は」

「えー、伏兵ってどういうことだよ? あんまりにもあんたが弱ってそうだったから、ちょっと噛ませ犬になってみた。元気でた? 元気になったんだったら、あとで豪華な飯でもおごってくれよな」 

「高いコーヒー代だ」

「楽しみにしてるぜ、上手い飯」

「あーあ。おまえと二人きりのディーなーなんて最悪だ。ツナも連れてこいよな」

「あ、じゃあ、獄寺も一緒にいい? オレとツナだけじゃあ、あとで知ったあいつにダイナマイト投げられちまう」

「おーおー、この際、二人だろうが三人だろうが構わねぇよ」

「やった! エビでタイを釣ったぜ」

「エビでタイね。嫌なことわざを身をもって覚えちまったよ」


 ディーノが肩をすくめ、山本が機嫌よくVサインをするころには、病院の看板が見えるようになる。明かりの灯っていない病院の横看板の前で、ディーノと山本は立ち止まった。


「山本」

 ディーノは山本の目を見た。

「ツナを守れよ」

「――守るさ。この腕で」


 山本は口元だけに笑みをのせる。


「あんたはツナを生かせよ」

 ディーノは右手を肩まで持ち上げて振る。

「生かしてみせるさ、すべてをかけて、な」


 同じ人間を守るために、違う立場に立つ二人は不敵に笑いあう。

 ディーノには指輪を持つ資格はない。
 山本には指輪を持つ資格がある。

 ならば、指輪を『持たない資格』があるディーノにしか、出来ないことは見つけようと思えばいくつも見つけることが出来る。


 それがディーノの価値だ。


 指輪を前にして、綱吉とディーノとの間に確かな隔たりがあると明確になったいま、ディーノにも変革の時が訪れている。指輪を持てぬことで鬱屈としているよりもするべき事が山のようにある。


 ディーノは山本を見た。山本は道路の端で屈伸などをして、かるい柔軟を行っている。彼はこれから自宅までランニングして帰るのだろう。鍛え上げられたしなやかな肉体は、これからの彼の人生にとって必要なものだ。


「気をつけて帰れよ。明日も学校だろ」

「そう。明日も学校だ。――あー、でも、たぶん、明日の朝、またここに来っと思う」

「ん? 用でもあるのか?」

「指輪、もらいに。たぶん獄寺も同じこと考えってと思うけど」

「ああ、指輪ならきっと、郵便受けにでも入ってっと思うぞ。リボーンが持ってったから」

「あー、まじで? じゃあ、帰ったら見てみるわ。――ほんじゃあ、また」


 言って、山本はかるいフットワークで走り出す。その背中にディーノは声をかけた。


「いつまでとぼけてるつもりだ?」


 足踏みをしながら体を反転させた山本は、器用に後ろ向きで走りながら笑顔で言う。


「ツナ次第」


 右手を顔の横で振って、山本は再び体を反転させ、ぐんぐんとスピードをあげていく。その背中が夜の闇にまぎれるのを見送って、ディーノは『閉院』と張り紙の張ってある硝子ドアを押し開ける。


「ガキに元気づけられて、なにしてんだか、俺……」

 薄暗い待合室を通り抜けながら、ディーノは自嘲気味に息をつく。

 目に見えない隔たりがディーノと綱吉の間にあるとしても。
 ディーノに綱吉から離れるつもりなど一切あるわけはない。



 缶コーヒーを飲んだせいか、眠くなる気配はまったくなかった。明かりのついた診察室のひとつにロマーリオの姿を見つける。事務机と平行するように置かれた診察台に腰掛けて英字新聞を眺めていたロマーリオは、ディーノに気が付いて右手をあげた。


「よう。ボス。おかえり。迷子にはならなかったんだな」

「なんだそりゃ。迷子になんかなるか」

「見張りを交代してみたら、ボスが一人で出ていったってきいて心配してたんだぜ?」

「そりゃ、どーも。――なぁ、聞いてくれるか、ロマーリオ。さっきな、外で山本に会ったんだ」
「山本? あー、あの刀の小僧だな」

「そう。そいつだ。――俺は、山本のことをなめてかかってたみてぇだ」


 ロマーリオに先ほどの山本とのやりとりでも話そうかと思い、ディーノは診察室に足を踏み入れる。ロマーリオは、診察用の丸椅子に座ってディーノが落ち込んだポーズをすると、ロマーリオはにやにやと笑って片目を細める。


「なんだなんだ? 一体、どうしたんだよ、ボス。やっぱり迷子にでもなったのか?」

「まあ、聞いてくれよ」

「ああ、聞いてやるとも。我らがボスの話となればな。なるべくなら、可哀想な話じゃないといいがな」

「あー、……どっちかって言うと可哀想なボスの話かもな」

「ははは。仕方ねえな。じゃあ、慰めてさしあげますから、話してみろよ。ボス」

 恭しく片腕を体の前に引き寄せ、ロマーリオがにやついた顔で言った。幼いころから側にいるロマーリオだからこそ、ディーノは彼だけにはボスとしてというよりも、兄のように慕いたいときがある。ロマーリオ自身も、ディーノが時と場合によって「兄」である彼と「部下」である彼を使い分けていることを充分に理解している。ありがたいことだった。

「俺が病院の前に立ってたらな、そこに――」

 ディーノは、微笑んで話を待つロマーリオに、山本との出会った時から話を始めた。


 日本を訪れたときには闇のように沈んでいた心が、いまは洗い流されたかのように清い気分だった。



 山本が「雨」の守護者だということを、ディーノは身をもって知った気がした。