【注意!!!!】

@09/08/31日発売 本誌ネタバレネタ
@ムクツナです




以上のことをご了承のうえ、ご覧ください。





 









 ブラッド・キス・プロミス


 うすく開いたカーテンの隙間から、ほんのりと朝日がさしこむベッドルームに骸はいた。最上級クラスのホテルの一室、その寝室のべっどのうえに骸は座っていた。身につけているのは黒いズボンだけで、上半身は裸のままでいても、空調のきいたホテルの室内では寒気を感じることはない。寝乱れたシーツを適当になおした上に座り、骸は目の前で静かに服を身につけていく恋人の横顔をジッと眺めていた。

「なに?」

 クスッと小さく笑った綱吉は、靴下を履いた足を黒いスラックスに入れて引き上げる。ファスナーを上げただけで、ホックはせずに、彼はベッドの足下に置いてある桜色のワイシャツを手に取り、袖に両腕を通す。

「なんで、そんなに見つめてんの? 見慣れてるだろ。俺の身体なんてさ」

 骸のほうをちらりとも見ずに綱吉が言う。超直感によって、改めて視線を向けなくても、骸が見つめている気配を察知できているようだった。シャツのボタンをとめ、裾をズボンにしまいこみ、彼はズボンのホックをとめ、ベルトをしながら喋る。

「見慣れたら、見ちゃいけないんですか?」
「うん? それじゃあ、見たきゃ見ればいいんじゃないの?」
「おや。あなた、露出狂だったんですか? 失礼しました。そうと知っていたら、もっとすごいプレイを――」
「待て、待て、待て。誰が不特定多数の人間に向けて肉体をさらすって言ったんだよ。おまえだけに決まってんだろ。ばか」

 クスクスと笑いながら、綱吉はシャツの衿をたて、手慣れた動作で薔薇色と黒の細かいチェック柄のネクタイを首にかける。手元を見下ろして、ネクタイを結びながら、彼は続ける。

「ふふふ。なんか、馬鹿な会話してるなあ」
「そうですね」

 いつもと変わらない調子で相づちをうち、骸はシーツの上に投げ出していた手をきつく握りしめる。

「これが、最後の朝になるかもしれないのに」

 しん。
 と、部屋の中が静まりかえる。
 ネクタイを締め終えた綱吉は特に表情を変えずにワイシャツの衿を両手で正していた。骸はずっと綱吉の横顔から視線を外さなかった。こういうときに涙が流せればよかったのにと思ったことを心の中で自嘲する。涙を流し、無様にすがって、「危険な賭はやめてください。僕のことを想うのなら、お願いですから、馬鹿な真似はよしてください」と骸が泣き喚けば、さすがの綱吉も決断を撤回する気持ちが芽生えるかもしれないという期待がある。
 だが、骸は泣けないし、
 本当に骸が泣いたとしても、
 綱吉が決断を撤回しない可能性もある。
 彼は強い。
 骸よりも、はるかに強い。
 誰よりも弱く見えるくせに、死線の上に立ったとき、彼は誰よりも強くなる。
 今までも、幾度も幾度も、生きる鬼神となった彼の姿を見てきた。己の背後にある、すべての生命と、すべての未来を守るためになら、彼はどんな悪鬼にもなった。
 彼は悪魔とも呼ばれたし、神様とも呼ばれた。
 だがしかし、骸にとっての彼は、――ただの『沢田綱吉』でしかない。
 ボンゴレ・デーチモとして生きる裏側で、彼は人の何倍も苦しみ、葛藤し、傷つき、何度も何度も絶望し、叫んで、自分が生きる世界の不条理さを嘆き悲しんだ。だが、そんな不条理な世界こそ、自分が選んだ未来なのだと理解している彼は、絶対に逃げ出そうとしなかった。骸が何度も「一緒に逃げましょう」、「誰も知らない場所までいって、二人で暮らしましょう」と誘っても、彼は決して頷きはしなかった。「それは、できないよ」と囁いて、手を差し出す骸の頬に触れて、泣きそうな顔で彼は笑った。

「――むくろ」

 物思いにふけっていた骸のことを、綱吉の声が現実へ呼び戻す。いつのまにか、ベッドサイドに近づいてきていた綱吉は、骸と目線を合わせると、微笑みながらベッドの端に座った。スプリングが軋んで、少しだけベッドが沈み込む。

「なあ、骸。おまえ、ナイフって持ってない?」
「は?」
「小さいのでいいんだ。持ってない?」
「三叉槍じゃいけないんですか?」
「それは大きい。ってか、俺、おまえとは契約しないぞ」
「……僕だって、今さら契約しようなんて想ってませんよ。心外です」

 不服をたっぷりと瞳にのせ睨み付けると、綱吉は焦ったように短く息を吸って「ごめん!」と謝罪してきた。これが最後の朝になるかもしれないのに、くだらないことで喧嘩をする訳にはいかない。骸がかるく首を振って「いいんです」と呟くと、綱吉は重ねて「ごめんね?」と小さく囁いてくる。その頭を片手で撫でてから、骸は長い髪をまとめている髪留めの裏側に指先を差し入れ、仕込んである五センチほどの刃をつまみ出した。幅は一センチにも満たない、殺傷用というよりは、いざというときのために仕込み武器だ。

「うっわ! おまえ、そんなとこにそんなもの隠してんのッ? 危なくないの?」
「自分が仕込んだ武器で怪我なんてしませんよ。――それで?」
「うん?」
「刃物がどうかしたんですか?」
「うん。それ、ちょっと貸して」
「何をするんですか?」
「いいから。……ね?」

 語尾に甘えを滲ませて笑いながら、綱吉はシャツの両袖を肘の辺りまでまくりあげる。いまいち、彼が何をしようとしているのか判断がつかなかったが、骸は仕方なく彼の手へ刃を手渡した。

「うん。ちょうどいいね」

 頷いた彼は、右手でつまむように持った刃の先を左手の小指の腹に押し当て、骸が止める間もなくその手を引いた。ぷつりと切れた皮膚の傷から赤い血が小さい玉になって溢れ、指先から細い線を描いて手首へと流れ落ちていく。それほど深い傷でないにせよ、傷は傷だ。

「なにしてるんですか!?」
「おお、骸が動揺してる」
「動揺もします! いきなり指なんて切って、いったい何のつもりなんですか?」

 慌てて骸は彼の右手から刃を取り返そうとしたが、綱吉は刃を持った手を背中側に回し、首を振った。

「ちょっと切っただけだよ。痛みなんてほとんどないって」
「理由を言いなさい」
「う。本気で怒るなよ」
「理由を言いなさい。さもないと、ヒドイ目にあわせますよ」
「うーん」

 曖昧な相づちで骸の問いを誤魔化した綱吉は、左手を差し出して首を傾げる。

「骸も左手、出して」
「は? まさか、僕の左手の指も切るって言ってるんですか?」
「うん」

 あっけないほど簡単に綱吉は頷く。「さあ、手を出して」と骸が拒否をすることなど一切考えていないような顔をして微笑む。何を馬鹿なことを。そんなこと受け入れるはずないでしょう!――と言いたい気持ちはあったが、何故か楽しそうな彼の意思を挫くほどの反抗心は骸にはなかった。たかが、指先を少し切られるくらいなら、骸にとってはどうでもいいことだった。しかも相手が綱吉ならば、なおのことだ。
 ため息をつきながら骸が左手を出すと、綱吉は少しずつ出血を続けている小指の血が骸の手の甲に付かないように気をつけながら、骸の手をすくうように手を掴んだ。

「切るよ」

 宣言してから、綱吉はためらいなく骸の左手の小指のはらに刃をすべらせる。ぴりっとした一瞬の痛みのあと、傷口からぷつぷつと赤い血が溢れてくる。「これ、返す」と言って刃を差し出してきた綱吉の手から刃を受け取り、骸は元のとおり、髪留めの内側に刃を差し込んだ。

「――それで?」

 かすかな痛みを感じる左手を振りながら、何がしたいんですか?と瞳で問いかけると、綱吉は傷口のある小指をたてた左手を顔の前にかかげて言った。

「ゆびきり、しよう」

 言葉を失う骸の前で、綱吉はゆっくりと双眸を細めるようにして微笑む。

「血の誓いだよ」
「血の、誓い?」
「オレは必ず、目を覚ましておまえのところへ帰る。おまえはそれまで、絶対に生命を粗末にしないで、どんなことをしても生き抜く。――その約束のための『血の誓い』だよ」

 そう言って、綱吉は左手をかすかに左右に振った。

「本当なら、薬指を切りたいところだけれど、薬指じゃあ、ゆびきりしにくいからね。だから、左手の小指を選んでみたんだ」
「……ばかな人ですね……」
「うん。オレ、ロマンチストだから」
「知ってます」
「そう。なら、ほら――、ゆびきりしよう。骸」

 左手を差し出してくる綱吉の前で、骸は首を振った。

「いやです」
「――どうして?」

 拒否されると考えていなかったようで、綱吉がぽかんとした表情で問う。
 骸は血が流れる互いの小指に交互に視線をはしらせてから、再度、首を振った。

「破棄されるかもしれない約束なんて、僕はしません」
「だからだよ」

 迷いのない、きっぱりとした声で綱吉は言う。

「オレは絶対におまえとの約束を破棄したりしない。するとしたら――、たぶんきっと、おまえのほうだ」
「僕のほう……?」
「オレは絶対に戻るよ。おまえのとなりに。それは絶対に誓う。絶対に、絶対に、おまえに誓って――、骸のもとに帰るから。……だから、骸。おまえは必ず、生きていて」

 たかぶる感情をおさえるようにゆっくりと呼吸をしながら、綱吉は伸ばした右手をシーツの上にあった骸の右手に重ねる。手に触れた彼の指先が小さく震えているのが伝わってきて、骸はやんわりと心を掴まれ、徐々に力を入れて握りしめられているような苦しさを感じて、そっと息を吐き出した。

「……綱吉くん……」

 琥珀色の瞳にうっすらと浮かぶ涙を散らすように、大きな目を静かにまたたかせながら、綱吉は骸の右手をつよく握りしめて言葉を続ける。

「どんなに苦しくても、辛くても、不安でも、悲しくても、……これ以上ないくらいに絶望しても、お願いだから、生きていて。――死なないでいて。お願いだから、骸……、生きるのを諦めたり、しないでくれ。オレは、死んだりしないから……、いなくなったりしないから……」

 それ以上、切なくかすれていく綱吉の言葉を聞いていたくなくて、骸は握られていた右手を振りほどいて、彼の身体を抱き寄せた。うぅ、という呻き声のあとで綱吉が泣き出した気配が腕の中でした。
 先ほどまで笑って、明るく振る舞っていたのは、やはりすべて――ドン・ボンゴレとしての彼だった。いま、骸の腕の中で泣いているのは『沢田綱吉』だ。罠と分かっている会合へ出向き、自分が特殊弾によって撃たれ、仮死状態となることを知っている人間だ。
 作戦が上手くうけば、すべての未来は祝福され、そして綱吉も生き返るだろう。
 作戦がどか一つでも失敗すれば、すべての未来は呪われ、世界は終わるだろう。

 綱吉はきっと、「怖い」と言いたいのだろう。「嫌だ」「怖い」「きっと痛い」「嫌だ」「どうしてオレがこんなことを」「どうして、こんなことに」「助けて」「だれか、たすけて」「怖いよ」「怖いんだ」きっと、心のいちばん深いところから、綱吉は声のかぎりに叫んでいる。だがしかし、その声は沢田綱吉という器からは溢れてこない。彼は自分以外の人間のためになら、上手に本音と恐れを隠すことができる。彼は、そうすることで最も強い戦士になれるという、悲劇的な才能を持っていた。

 綱吉の嗚咽がおさまるまで、骸は彼の背中をずっと撫でていた。時折、額やこめかみに唇で触れ、何度も何度も頭や背中をさすった。
 綱吉はすぐに泣きやんだ。感極まって流れた涙はそれほど長いこと流れることもない。呼吸を整えながら骸から身体を離した綱吉は、照れくさそうに笑って「きゅうにごめんな」と言った。骸はただ微笑み返し、なにも言わずに首を振る。

「――なあ、骸。オレと約束して」
「約束をしたくないという人間に対して、あなたもよほど強情な人ですね」
「オレが言い出したらきかないっていうの、骸はよく分かってるだろ?」
「ええ。そりゃあ、もう。……十分すぎるくらいに」

 唇の口角を持ち上げた綱吉は、改めて小指をたてた左手を持ち上げる。
 パーフォーマンス的な意味を込め、ふかいため息をついてから、骸は小指をたてた左手を持ち上げた。
 まだ血が乾ききっていない小指へ、綱吉の小指がからむ。ずきりとした痛みが小指からはしったが、耐えられないほどではない。小指を絡めた綱吉は、まつげを伏せ、浅くあごを引いてうつむいた。

「約束だよ。骸」
「はい」
「生きて」
「はい」

 伏せていた瞼をもちあげ、綱吉が琥珀色の瞳で骸を見つめる。

「綱吉くん」
「うん」
「必ず、あなたを目覚めさせます」
「うん。待ってる」

 こくりと頷いて、綱吉は涙をこらえるように唇を噛んでから、もう一度頷いた。

「ずっと、待ってる……、むくろ、……ごめん――」

 彼の瞳から涙が溢れる前に、骸は右手だけで彼の身体を引き寄せ、震えてるように言葉をつむいでいた彼の唇を唇で塞いだ。刹那、ぼろぼろと彼の両目の縁から涙が溢れ出すのを間近に見つめてから、骸は目を閉じた。
 むくろ。ごめんね。すきなんだ。あいしてる。角度を変えてキスを繰り返す間も、綱吉はうわごとのように言い続ける。ボンゴレ・デーチモという仮面の下で、恐れ、泣き続けている『子供』のことを考えると、骸は自分にあるはずもないと思っていた『良心』が軋んで痛むのを感じた。
 からんだままの左の小指が、いっそからみあったまま、外れなくなればいいのにと思いながら――、綱吉と交わす『最期になるかもしれないキス』を骸は夢中になって続けた。



 



「おまえが目覚めのキスをしてくれるのを、俺はずっと『待』っているよ。だから、必ず、俺を迎えてきてくれよ」






「これ以上ないくらいの屈辱や耐えられないほどの苦痛にまみれた血路であっても、僕はその路を『生』きましょう。その血路の先にあなたが待つというのなら、たとえ心臓をえぐられても僕は死んだりしません。かならず、あなたを迎えに行きます。僕に君臨する、唯一の王よ」


 





そして、運命の歯車は回る――









 【血】と【くちづけ】と【約束】の――おはなし。
【END】